従来からの住人がいなくなり、患者・職員の住宅、娯楽施設、作業場、看護学校などが建設され、長島愛生園、邑久光明園の関係者のみが住む島となっている。1953年のらい予防法によって患者の隔離政策がとられ、それは1996年まで続くことになった。本州から僅か200メートルの距離にありながら、ハンセン病への差別・誤解によって隔絶され、物理的にも、精神的にも孤立した島であったが、全長185メートルの邑久長島大橋(人間回復の橋)が1988年(昭和63年)5月に開通して本州と陸続きになった。
ハンセン病への差別・人権侵害事件はもちろん知っていたが、これまで接点のないまま人生を過ごしてきた。だから、1990年に岡山県人になって27年、何度か邑久長島大橋の橋の下で魚を釣ったことがあるが、一度も長島に足を踏み入れたことがなかった。
今日は、かみさんの誘いで『長島アンサンブル』というイベントに参加するために、初めて長島に上陸することができたのだった。
パンフレットには、「瀬戸内の海と多様な緑に囲まれた、美しく穏やかな『長島』。
ハンセン病に対する差別や偏見、人権侵害で語られることの多い島だけど、どんなにつらいエピソードも、重たい歴史も、私たちには、なかなかリアルに想像できない。どこか遠くの、遠い昔の、 出来事のように感じてしまう...。
長島には青い鳥楽団、クローバー楽団などの楽団があったという。強すぎて全国ツアーからなかなか帰ってこれない高校野球部も。
長島にある資料館では、音楽や作陶、絵画など文芸活動が盛んに行われていた様子も紹介されている。悲しいエピソードのすぐ隣には、同じように、笑いがあり、友情があり、恋があり、歓びがあったはず。大きな大きな歴史の片隅には、一人一人のささやかで前向きな日常の集積があったはず。
長島の日常と私たちの毎日は、遠いようで近い、もしかすると、隣り合わせにあるものなのかもしれない。本土から長島へ架けられた橋を、軽やかに渡ってみてほしい。
悲しみだけに目を向けるのではない、みんなの多様で新しい感覚から生まれる、対話・理解の誕生を信じて。」と記されている。
今日はその二日目で朗読・演奏会が催された。朗読は「阿部はまじ」夫妻、演奏はギター奏者の「伊藤ゴロー」さんである。映像と、朗読、そしてそこにギター演奏が重なり、とても酒脱な空間が出来上がった。子供連れOKということで、その空間を引き裂くような泣き声があったり、騒ぎ声が混じるが、朗読が始まると聞き入るこどもが多く、意外にそれが子どもの絵本の朗読とマッチしていてなかなか良かったよ。
子供の絵本と侮ることなかれ、大人に対しても「心の中に勇気をもって、おそれずに世の中と向き合っていくんだよ。」「仕事に追われてないで少し周りの小さな自然に目をやるだけで、季節の移ろいを感じることができる。それを忘れないで!」「生きていくということは色んな経験を積むということ。失敗や、間違いや、辛さや、苦しさや色々あってもちゃんと生きるってことが大事だよ。」そんなメッセージを発しているように感じました。心に響く朗読・演奏でした。誘ってくれたかみさんに感謝。
愛生会館 |
駐車場から愛生会館へ歩く途中の風景 |
愛生会館から見た風景 |
0 件のコメント:
コメントを投稿