2019年1月17日木曜日

犬との生活

 ずいぶん長いことブログを書かなかった。一言でいえば、多忙だったのである。フェイスブックやツイッター、インスタグラムもやっていて、そちらは時々投稿しているのだが、ブログは、ちょっとまとまった文章を書くというイメージなので、ついついフェイスブックに逃げていたといえなくもない。
 そんなくだならいことを書こうと思っていたのではなく、この間の私の暮らしにおこった変化について書こうとしているのだ。

 タイトルにある通り、2018年8月末から犬を飼っている。もちろん雑種だ。血統書付の犬を大枚はたいて買うなどということはできない。子どもの頃から犬を飼っていた。何頭も飼ってきたが、一度たりと犬を買ったことはない。どこかで子犬が産まれたという話を聞くと、出掛けて行ってそのうちの一頭を貰って来て飼うのが普通だった。隣の家と1kmほども離れた山の中の一軒家だったので、子どもの頃、犬は放し飼いにしていた。何時の頃からか放し飼いはだめということになって、繋ぐようになったが、それでも朝夕の散歩に連れて行くということもなく、30分ほど放してやって、呼べば餌を食べに戻ってきたので、餌を食べている間にリードに繋いだのだった。
 犬といえば番犬と決まっていたので、見慣れない人が来たら吠える犬が重宝された。ある意味で野性を残している犬が良い犬だった。犬とのつきあい方も人が威張っていたし、犬の方もそれが面白くなくって、いやいや言うことは聞いてもいざとなれば逃げだそうという素振りを見せて、それを餌で繋ぎとめておくという感じで、微妙なバランスの上に人と犬の関係が構築されていた。

 大学の5年間と社会人になって最初の家を買うまでの5年、都合10年程、寮とアパートで暮らしたが、それを除けば一戸建てに住んでいたので、犬は基本的に番犬で、庭で飼っていた。僕と犬の間には常に一定の距離があった。前妻と離婚して、アパート暮らしに戻って、当然のことながら犬は飼えなくなった。ところが7年前に再婚し、3年前にペット可マンションを買って、かみさんが犬を飼いたいと言い出した。「ラブラドール・レトリーバーが良い」などというので、調べてみて驚いた。子犬が数十万円の値を付けているではないか。かみさんは「イギリス産のラブラドールは少し小柄で飼いやすいのだ。」などというのだが、何と50万円もするのだ。一度も犬を買ったことが無い私には衝撃的な出来事だった。
 飼えなくなって放置されたペットたちの問題がテレビで取り上げられていたのを思い出して、インターネットで調べてみると、飼えなくなって捨てられた犬が保護されたり、その保護された野犬が子犬を生んだりして、保健所や、動物愛護センターで里親探しが行われているのを知った。もしかしたらそこにラブラドール・レトリーバーの里親募集が行われているかもしれないと思い、時間があればインターネットで調べて、ラブラドールの里親募集に応募してみたこともあるのだが、縁がなかったようでなかなか決まらなかった。そんなときに岡山県動物愛護財団を知り、そこで、保護犬の譲渡会が定期的に開かれていることを知った。そこで、僕と妻は愛護センターを尋ねてみることにした。そして、数カ月にわたって日曜日ごとに(とまではいかないが)愛護センター通いがはじまった。マンションのペット規程は「中型犬まで」、「体高50cm程度」という条件が付されている。その条件を満たしながら出来るだけ大きな犬を探し、1カ月近く成長を見続けながら、僕と妻は、まだまだ暑い8月の終わり頃、保護犬の里親となったのだった。

 これまで僕と犬との間には距離があったが、マンションで犬を飼いはじめて最初の戸惑いは、犬との関係がすごく近いということだった。同居するということは否が応でもお互いに譲り合わないとうまく暮らしていけないということを初めて知った。
 最初は、あっちこっちにシッコはするし、ウンチもする。僕は、介護の現場で人のウンチやシッコを見慣れているので、犬のシッコやウンチの片付けは全然平気なのだが、かみさんはもしかしたら出来ないのではないかと思っていた。しかし、僕の予想を裏切り、かみさんは意外に平気でシッコやウンチの片付けをやっていた。
 それでも床の上にシッコやウンチを漏らされると、いい加減にトイレシートでシッコしてくれと叫びたくなり、トイレトレーニングなんて出来るのかと不安が大きくなっていたのだが、案ずるより産むが易しで、犬がそのうえでシッコしたくなる臭いのついたトイレシートなどという便利な物があって、その力も借りて、いつの間にかトイレシートでシッコが出来るようになった。
 ウンチもトイレシートの上で出来るようになったのだが、ウンチをする時に背中を丸めて力んで動き回るので、なかなかトイレシートの中におさまらない。それにウンチを食うという暴挙にでるので、これには閉口した。野生の犬は自分よりも大きな肉食獣、つまり犬を食いに来る動物から子どもを守るために、子犬の糞を食べてしまう習慣があるのだという。そういう本能的な行為なので、食糞はなかなか治らないといわれたが、成長するにつけ、シッコとウンチの間隔が開いていき、月齢6カ月頃には、基本的に朝晩の散歩時に、還暦を迎えた僕よりもはるかに立派なウンチをひねり出し、シッコをした。外でウンチをすれば私か妻が回収してしまうので、自分のウンチを食べるという行為はできなくなった。しかし、なぜか他の何かのウンチを叢から発見して咥えて喜んでいる。それも産出されたばかりのそれではなく、数日が経過して水分が抜けたような奴を叢から引っ張りでしてくるのだ。一緒に散歩している僕が、スズよりも早くスズが好きそうなウンチを見つけて咥えないようにコントロールするのが一番で、これに関してはかみさんよりも僕の方が上手い。

 歯が生え変わる頃、いろんなものを噛んだ。綿の入ったおもちゃを妻が買って来ては与えるのだが、まずタグが犠牲になる。小さく出っ張ったタグを粘り強く噛み続け、数日で噛み切ってしまう。そうすると、そこから解れていき、今度は、中の綿を引っ張り出すのだ。数週間もすれば、中身がすっかり引っ張り出されて、ボロボロ、ヘロヘロ、フニャフニャになった布の残骸だけが残る。
 最悪だったのは、壁を噛み始めた時だ。壁の角のところを噛んで壁紙を大きく引き剥がしてしまったものだから、接着剤を買って来て、壁の修復を試みた。あまり上手に貼れなかったけれど、また剥がされる可能性があるので、僕の、下手な補修ですませているので、家の壁はフランケンシュタインみたいになっている。もちろん、ただ手をこまねいて見ていたわけではなく、噛む場所に椅子を置いて、防御するといった工夫をしてみたのだが、これが意外に効果があって、それ以後、壁を噛むことをしなくなった。
 長野で大型犬を飼っている古い友人の西村さんが、犬は噛みたいんだから、骨を与えるのが良いよとアドバイスしてくれた。骨を齧らせると他の物を噛まなくなるというので、試してみたのだが、これはなかなか良いアイデアだった。牛の肋骨、鹿の足の骨、羊の足の骨などを与えてきた。歯が生えかわってからは噛む力がますます強くなり、骨をガシガシと噛み砕き、食べてしまうものだから、骨一本を一カ月足らずで食べてしまう。
 備前市では鹿が増えてしまって、鹿を罠を仕掛けて駆除しているのだが、その猟師からもらった肉を毎年おすそ分けしてもらっている。先日、わざわざ備前から届けていただいたのだが、その時に、骨が欲しいとお願いした。犬に齧らせる骨を自分で作ってみようと思い立ったのだ。骨を解体して、肉が多少ついていても気にせず、天日干しにして、干し肉ならぬ干し骨を作り、日持ちするようにしておいて、犬にあげようというわけだ。いつ届くか分からぬ野生の鹿又は猪の骨を首を長くして待っているところなのだ。

 骨で気づいたことがもう一つある。鶏の骨は縦に割れるので犬が飲込むと消化器を傷つけることがあるからやってはいけないという説の誤りだ。犬にも個性があるので、みんながみんな同じだとはいわないが、飲み込める大きさに噛み砕くまでガリガリ、パキパキ噛み続け、それから飲込んでいるし、それでも飲み込みが悪ければ口から出して知らぬ顔をしている。家では素足派の僕の足に、時々、その放っておかれた骨の食べ残しが刺さって痛い思いをするのだが、鶏の骨を与えても問題ないのではないかという思いが強くなった。それに、散歩の時に野鳥を追う姿を見ていると、鳥を狩ろうとしていることは間違いなく、繋がれているので成功しないけれど、捕まえれば間違いなく鳥を食っているわけだから、鶏骨をやってはいけない説は誤りに違いないと思い始めたのだ。
 そこで、手羽先を買ってきて、圧力鍋で10分ほど過熱して与えてみた。観察していると骨が縦に割けるというより普通に横に割れてるし、犬の噛む圧力の前に、ほとんど無力化して細かく噛み砕かれている。そして、予想通り、薄っぺらい小片は飲み込まずに吐き出している。
 次に、手羽元を炊いて肉は僕の酒の肴となり、残った骨をやってみた。手羽先よりも太い骨だが、全く問題なく平らげている。手羽先の骨同様に、小片となっても飲込みにくい骨片は無理して飲込まずに吐き出しているのを見て、鶏の骨はやってはいけない説は誤りだと確信したのだった。

 犬は、匂いを嗅ぐ。何を隠そう僕も実は匂いフェチで、発酵臭が大好きなのだが、犬はとくかく匂いを嗅ぐ。家の中の匂いは嗅ぎつくしたのか、せいぜい僕が帰ると足の臭いを嗅ぐぐらいだが、散歩に出ると、それはもうしつこいくらい匂いを嗅ぐ。犬にとって匂いを嗅ぐというのはどういう意味があるのだろう?
 人は主に視覚によって自分の周りに危険がないとか、ここにはこんな店ができたんだとか、自分のいる環境を確認することが多い。もちろん、音や、臭い、皮膚からも環境の情報は入ってくるが、メインとなるのはやはり視覚からの情報だろう。犬の場合は、どうやらそれが嗅覚と聴覚、中でもやはり嗅覚がメインなのだろうと思う。地面の匂いを嗅いでいる愛犬の姿を見ていると、匂いを嗅ぎながら色んなことを考えているのだろうことは想像に難くない。そして、地面の下に何かを見つけた時には、前足と鼻を使って土を掘り返さないと気が済まない。最初のうちは犬のそんな気持ちが分からなくて、臭い嗅ぎを中断させることもあったが、今は、基本的には気が済むまで匂いを嗅がせている。匂いを嗅ぐ行動は、餌となる小動物、例えばウサギなんかが土の下に巣をつくり、地下に通路を築いているのを見つけ出して、ウサギを狩るという食い物を探すという本能に由来するものだったりするわけで、その匂いを嗅ぐ行動を制限することは、これ以上ないくらいストレスになるに違いない。交尾期に相手を探すのも、雄犬の匂いを嗅いで、健康でたくましい、自分のパートナーに相応しい相手かどうかを判別しているのだろう。飼い主の皮膚癌を匂いの変化で気がついた犬の話をテレビで見たことがあるが、健康な雄犬を嗅ぎ分けてきた歴史がそんな犬の能力を作り上げてきたのだと思う。
 そんなわけで愛犬には自由に匂いを嗅がせているのだ。そして、どうしても時間がない時には、説得するのだ。犬だって人間同様、妥協することを覚える。だから、「もう帰るぞ!」と声をかけると、「仕方ないなぁ。まだ情報不足だけど、まあ、帰ってやるか。」とばかりに、我が家への歩みを速めてくれたりするのだ。もちろん、全くいうことを聞いてくれない時も多々あるんだけどね。

 こんな具合に、犬が私の生活に割り込んできた。というか、むしろ私の生活が犬を中心に回り始めたと言ってもいいくらいだ。朝の散歩はかみさんの出番だ。5時頃から散歩に出かけるので、私には到底無理で、散歩から帰ってくる6時頃に起きだして、戻ってきたスズの足を洗う係を引き受けている。そして朝飯をスズと一緒にすませ、仕事に行く。昼休みの1時間の間に家に戻りスズに餌をやって仕事に戻る。仕事が終わると概ね週の半分は残業をせずに帰って、犬と一緒に散歩に行く。週末は時間があればドッグランに行って、スズに広いスペースを自由に走り回ってもらう。こうした犬中心の暮らしは、ひとえにかみさんの考え方に由来するものだが、こうした暮らしが続いてくると、60年の歴史の中で今が一番犬のことがわかるようになっていることに気づかされる。今までは犬は番犬として飼いならそうと考えていたが、今では、犬は家族の一員となった。相手もたぶん私のことを認めてくれていると思うが、お互いに妥協するところは妥協して、かなりの部分はスズに譲って、私たちの暮らしが成り立っている。もちろんまだまだだけど、これからの暮らしの中で、もっと犬を知り、犬と分かり合えるようになる自信はある。犬との生活が、私に、日々の暮らしの新しい楽しさを教えてくれた。スズに感謝である。