山田方谷という名を知っている人がどれほどりうだろうか。NHKの大河ドラマで山田方谷さんを取り上げてほしいという陳情を行っている団体がいるということを実は先週の土曜日のシンポジウムで初めて知った。
10月7日のシンポジウムは、賢人を語りつなぐ会主催の『朝鮮通信使のユネスコ世界記憶遺産登録に向けた記念シンポジウム』で、テーマは、「山田方谷(気学・陽明学者)と渋沢栄一(論語と算盤)にみる医療・福祉の思想の源流に学ぶ」副題として「地域包括ケアシステムの構築と『我が事・丸ごと』地域共生社会の実現に向けて」が掲げられている。青木内科小児科医院の青木先生のお誘いで、参加する機会を得たのだが、実に多くのことを学ばせてもらったのですね。
山田方谷さんは、1805年3月21日(文化2年2月21日)生まれで、1877年6月26日に72歳で生涯を終えた。備中松山藩の生まれで元は清和源氏の流れをくむ武家だったようだが、方谷さんが生まれたころは農業で生計を立てていた。農業といっても菜種油の製造・販売を家業とする農商で、当時とすれば豊かな家だったいえる。そんなわけで、5歳で儒学者の丸川松隠に師事し頭角を現し、二十歳で士分に取り立てられ、藩校の筆頭教授に任命されている。それを契機に藩政にも参加するようになり、貧しかった藩を産業振興策などで7年で豊かな藩に変えることができた。その成功により、藩主板垣勝静は第15代徳川慶喜の老中首座に上り詰めた。方谷さんも江戸に出て徳川幕府の補佐役となったが、藩の内政に比べて外交や幕政については意欲に乏しく、早々に辞任し、内政には責任を持つことを約して松山に帰国、藩の育成や弟子の育成に力を注いだ。
略歴を眺めるとざっとこんな感じですね。そして、方谷さんの最大の功績である藩政改革を見ておく。
方谷さんの藩政改革の要点は、「理財論」および「擬対策」の実践にある。
理財論は方谷さんの経済理論で、漢の時代の董仲舒(とうちゅうじょ)の言葉である「義を明らかにして利を計らず」の考え方を基本にしている。つまり、綱紀を整え、政令を明らかにするのが義であり、その義を明らかにせずに利である飢餓を逃れようとしたのでは成果はあげられない。その場しのぎの飢餓対策を進めるのではなく、客観的に義と利の分別をつけていけば、おのずと道は開け飢餓する者はいなくなると説いた。擬対策は方谷さんの政治論で、天下の士風が衰え、賄賂が公然と行われたり、度をこえて贅沢なことが財政を圧迫する要因になっているので、これらを改めよと説いた。
わかりやすく言うと、藩費が足りないのは賄賂が公然と行われていることと、役人の身分に過ぎた奢りが盛んになったことの2つ以外にない。この2つは泰平が続いた後に必ず残る弊害であり、平和のうちに醸成され、必ず国家を乱し衰退をもたらすものである。これらは今後に及ぼす影響も深刻である。またこれらは昔から何度も繰り返されてきた事実で、この2つの弊害を取り除かなければ財政を救うこともできないし、士風を喚起することもでず国家の衰えを止めることもできない。と方谷さんは言っているんですね。
こうした理論に基づき、具体的政策を打ち出していったわけです。それは、「藩財政の内外への公開と債務返済の50年延期」、「大坂の蔵屋敷を廃止し領内に蔵を移す。堂島米会所の動向に左右されず有利な市場で米を売る」、「質素倹約を命じ、賄賂は没収」、「信用を無くした藩札を焼き捨て新しい藩札を発行、藩に兌換を義務付けた」、「砂鉄から備中鍬を生産、タバコや茶・和紙・柚餅子などの特産品を開発し、生産者の利益を重視」、「特産品を手数料のかかる大坂を経由せず、直接江戸に運ぶ」、「藩士以外の領民教育にも力を入れ、優秀な者を藩士に取り立てる」、「目安箱を設置して領民の声をきく」、「犯罪取り締まりの強化の一方で寄場を整備し早期社会復帰を援助」、「農兵制の導入、イギリス式軍隊の整備」等々がその中身である。
こうした改革によって2万石に満たなかった藩の財政は20万石に匹敵するほどの規模となり、農村においても困窮する者はいなくなったという。
しっかりした思想に基づく理論とその実践、素晴らしいね。ちょっと表現を変えれば、今度の衆議院選挙向けの公約ができそうなくらいだなぁというのが山田方谷さんの思想を学んだ私の感想です。
0 件のコメント:
コメントを投稿