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2017年12月4日月曜日

師走

 早いもので、今年もあと1か月で終わる。2017年を振り返るには少しだけ早いかもしれないが、私の、2017年を象徴する出来事ベスト5といったら何かなぁと考えた。

 何と言っても、第一位は、医療生協を卒業したこと。大学4年の後期に学生を続けながら名古屋の南医療生協に入職しているので、今年の11月まで勤めていれば36年勤続ということになったわけだが、7月末で退職したので36年には4か月足りなかった。それでも大凡36年の長きにわたって、医療生協、民医連、医療福祉生協連という枠組みの中で仕事をしてきたので、そこを辞めるというのは我が人生の中でも一大事である。
 遅かれ早かれやってくる定年を待たずに辞めたのには理由がある。私の思い描いている協同組合の姿と、岡山医療生協の常勤役員が考えている協同組合像の間の乖離があまりにも大きくなったということだ。もちろん私の信じる協同組合に近づける努力をするってことが職員としては正しいのだろうが、定年まであと1年という時間を考えると、職員数1,000人を超える大きな協同組合の舵を切ることは難しい。そして、自分の思いと違う方向に進んでいる船に乗り続けることが耐えきれなくなったことが早期退職の理由だ。

 第2位は、まちづくり研究所を立ち上げたこと。私は、安心して暮らし続けることのできる町を本気で作りたいと思っている。その実現のためには、地域を変えていくしかない。「暮らしの困った相談所」のようなイメージで地域づくりの活動していきながら、自分の飯の種も何とかしなければならないということで、苦労することになるのは眼に見えているが、それでも世の中にコミットしながら、世の中の一員として歴史の歯車を前に進めるために、とにかく何かをはじめたいという情熱だけは忘れずにやっていきたい。

 第3位は、NCS事業協同組合の設立に参加したこと。超高齢社会を生きるためには福祉・介護の仕組みが重要になるわけだが、報酬の低さ、介護労働の厳しさ等から介護人材が不足しているし、今後もさらに人材の確保と育成が難しくなる。人材確保の一つの方策として、この11月から、外国人技能実習生が介護の現場でも導入できることになった。5年の技能実習期間に介護福祉士資格を取得することができると、外国人に在留資格を付与するという制度が始まったのだ。NCS事業協は、その外国人技能実習生を受け入れる監理団体をめざして設立されたのだが、その運営に参加することになった。
 外国人実習生が介護人材不足をカバーする仕組みだとは思っていないが、たりないのは事実。何らかの形で外国人材に頼るのはやむを得ないことだ。とすれば、従来のピンハネ目的の監理団体が、その延長で介護職員の受け入れをしようという動きに抗して、まじめに実習生を受け入れ、日本の介護福祉士資格を取得できるようバックアップする体制をしっかり作り、実習生の母国の福祉・介護を担う人材を育てるお手伝いをさせていただくというビジョンをしっかり持った監理団体としてNCS事業協同同組合が活動していくことはこの業界にとって必ずプラスになることだと思っている。

 第4位まちづくり研究所の事務所をだしたこと。自営業なので、家が事務所で良いと思っていたけれど、仕事とプライベートの区別がつかないタイプの私が、家を事務所にしているとどうにもいけない。仕事がルーズになってしまうので、経済的な負担のことを考えると厳しい選択ではあったが、岡山県総合グランドの北西・津島南二丁目に事務所を借りた。ミーティングテーブル・書庫・事務机等備品も入り、狭いながらも「我が事務所」である。一国一城の主になった気分は悪くない。

 第5位は、群馬のお袋さんが、股関節の人工関節への置換する手術を受けたことかな。自分が年を取るってことは、とりもなおさず親も歳を取るってことで、お袋さんの手術はその象徴的な出来事だった。今年から、米作りを親父殿の甥(定年(60歳)は過ぎてるけどね。)に任せて、我が家は米作りから撤退した。百姓が米作から撤退するのは、サラリーマンが定年退職を迎えたようなものだから、親父殿も83歳にして農業から定年退職した。とはいえ、家の周りの畑で、毎日の食卓を飾る野菜たちの栽培は続いており、さしづめサラリーマンが定年後に再雇用をしてもらったようなものなのだろう。今度、実家に里帰りするときに、その辺りの心境を肴に親仁殿、お袋さん、弟とゆっくり杯を重ねたいものだ。

 そんなこんなで、今年も色々あったが、来年はもっと色んなことを”起さないと”いけないなと思いながら、師走を迎えた今日この頃なのである。

2017年11月17日金曜日

お昼休みの散歩

 今日は、お昼休みに町を探検しようと思い立って、北に向かって歩いてみました。すると山の端に妙善寺というお寺がありました。ちょっと調べてみるとこのお寺、弘法大師(774~835年)が開いたと言われているんですね。つまり9世紀のころに建立されているようです。元は、真言宗の福輪寺というお寺でした。
 南北朝時代、つまり14世紀に京都から大覚大僧正(妙実上人)という方が、法華宗の布教のために備前の国に立ち寄って、ここ津島村で百姓たちに、南無妙法連華経の節回しにのせて、後ろに下がりながら苗を植える方法を伝授し、その合理的な方法に感心した村人が、村に招き教化を受けたという話です。
 そして、福輪寺の座主だった良遊さんという方も大覚大僧正の弟子となり、福輪寺という寺名を妙善寺と改めたのがこのお寺のルーツなんですね。この一帯は、松田一族が治めていたのですが、城主も法華宗に帰依し戦国時代を通じて法華宗を庇護したので、その教えは備前から美作にまで広がり「備前法華」呼ばれるようになりました。
 華々しい歴史のあるお寺ですが、同じ宗派の中の「受不施」と「不受不施」両派の派閥争いが起こり、幕府は1666年に不受布施派の布教を禁じたことから、その後長きにわたって弾圧を受けることになりました。
 不受布施派の備前法華の拠点であった妙善寺も備前藩主池田家の激しい弾圧と迫害にさらされることになり、1708年には一切の堂宇を廃棄することになりましたが、住職や信者は信念を崩さず信仰を守り抜き、1876年釈日正上人の請願により日蓮宗不受不施派の再興、翌年の妙善寺の故地に津島教会所設置を経て、1897年には再び妙善寺を名乗ることが許されるという、何ともすごいドラマが秘められたお寺なんですね。
 地域の歴史を知るというのは、大事なことだなぁと思いました。ここに昔から住む人たちの精神世界に、今もその歴史が大きな影響を残していると思うからです。
鷲林山妙善寺の門
門を入ると左手に石碑のような置石があるが、
碑文が書かれている様子もなく、良くわからなかった。
でも、そこに紅葉したモミジの枝が下がった小景が、
ちょっと気に入った・・・

イロハモミジの赤と下の方にノキシノブのが見えてます。
ノキシノブは着生植物なので、樹木から栄養を奪い取るような真似はしません。


一寸坂道を上るとすぐに本堂前の庭に出るのだけれど、
そこに土塀が築かれており、その土塀にかかるモミジは、
まだ、紅葉が始まっていなかった。
桜かな?モミジ同様、紅葉が始まってます。



お寺の庭に池があって、その池に、たぶん雨水を集めて、
池に集めるようになっているんだと思うんだけど、
その土管の上に赤とんぼが停まってた。
写真が前後しちゃったけど、置石の周りみ密生していたスギゴケ
そして、この建物が本堂です。

2017年11月7日火曜日

東日本大震災被災地 大川小学校

ここが、78人の児童のうち74名が、13名の教職員のうち10名が死亡するという被災んな津波被害の現場です。校庭の広場でどこに避難するかを議論している間に時間が過ぎてしまい、避難方針が決まって移動を始めた矢先に津波が到達して逃げ遅れることになってしまったのです。

 日本列島は西半分はユーラシアプレートの東端、東半分は北米プレートの上にのっており、北米プレートの下に太平洋プレートが沈み込む際に北米プレートを巻き込んで沈んでいき、その溜まったひずみが一気に解放されて今回の地震が起こっています。
 同じようにユーラシアプレートの下にフィリピン海プレートが沈み込んでおり、東日本同様、地殻の歪が大きくなり、いつ爆発的に解放され、東日本大震災のような巨大地震が西日本を襲ってもおかしくない状態にあります。

 今回の被災地訪問は、東日本大震災の教訓を生かして、災害に強い地域づくりにどう取り組むかのヒントを見つける旅でした。なかなか考えがまとまりませんが、多くの糸口を示してくれたと思っています。

 こうした震災の遺構を残して未来への教訓にしようという意見と、忘れたい過去を思い出させる被災建物が残っているのは耐え難いという意見とが拮抗しているようですが、この大川小学校の被災建物は残されるようです。

卒業制作の壁画が倒れてしまわずに残っていました。









東日本大震災 被災地を歩く

 11月4日、日本福祉大学時代の同窓生と東日本大震災の被災地を巡ってきました。
 ここは、仙石線旧野蒜駅です。旧駅舎が今は震災を語りつぐための施設になっています。現在の野蒜駅は仙石線の内陸化でここから500mほど北の海抜20mの丘の上に新設されています。
身長約170cmの伊東君の背丈の倍以上のところまで津波が押し寄せました。

当時の切符の販売機が津波に壊された時のまま保存・展示されています。
ガイドさんがついて、当時の状況を説明してくれます。
彼女自身も被災者で、津波にのみ込まれたけれど運よく助かったとの由。



駅の南側に用水路があり、その用水路のところで津波の高さがガクッと下がり、
それで、駅舎が津波にのみ込まれなかったので上に逃げた人は助かったのだそうです。
駅舎の後のプラットフォームの部分が残されていて、遺構として残すために
整備が進められていました。

2017年10月23日月曜日

文化としての日本酒とまちづくり

 昔、一村一蔵といわれるほど酒造場はたくさんあった。今のように、流通が発達していないし、冷蔵庫のない時代には長期保存にも限界があった。だから、暮らしの近くに酒造場が作られることになったのだろう。
 それに、何といっても、日本人は古くから酒を飲む習慣があったことが酒造場がたくさん作られた最大の理由かもしれない。例えば、1世紀のころに書かれた中国の思想書『論衡』には、日本人が黒黍で醸した酒に薬草を漬け込んだ薬酒(さしずめ養命酒のルーツのようなものだろうか)を周の成王に献じたという記述があるという。また、中国の歴史書で3世紀ころに書かれた『魏志倭人伝』には日本の習俗を伝える記述があり、「倭人好みて酒を飲む」と日本人に酒を飲む習慣があること、喪にあたっては弔問客が「歌舞飲酒」の風習があることなどが書かれている。今でも、さすがに歌舞はないけれど、弔問客が一緒に酒を飲みながら故人を偲ぶという習慣は残っている。それくらい日本酒は日本人の暮らしに馴染みのものなのだ。
 第二次世界大戦で、灘の酒蔵に大きな被害が出て、実に95%が焼失した。にもかかわらず、戦争が終わって10万人を超える満蒙開拓移民の引き揚げ、国外に出兵していた兵士の帰還、何よりも荒廃したとはいえ平和な世の中になって酒を飲む需要が増える一方だった。酒蔵の戦争被害や農地の荒廃で米も不足し、日本酒の生産が追い付かず、1949年から醸造用糖類,アミノ酸,有機酸を加えた調味アルコールのもろみへの添加が始まる。これにより米だけでつくった純米酒の3倍の増産が可能となり,これを増醸法,三増法と呼んだ。こうして、戦前はすべて純米酒だったのに戦後の三増酒の時代が始まる。純米酒のうまさに比べれば不味いのは当然だが、とにかく酒ならばよしとされ、これが売れたのである。コメの生産が追いつき、酒蔵の再建ができた後も、この増醸法が酒造りの中心の時代が続いた。増醸法が採用され続けた理由は原価が低く抑えられ、利益が良かったからに他ならないわけだが、それが日本酒に苦難を与えることになった。
 高度経済成長期を経てワインやウイスキー、ビールに焼酎など様々な酒が国内外から一般家庭にも届くようになると、三増酒の不味い酒を飲まなくても美味い酒、飲みやすい酒が手に入るようになって一気に日本酒離れが進むことになったのだ。その後さまざまな努力が始まって、日本酒の酒質は年々上がっており毎年旨くなっているが、それでも居酒屋では「とりあえずビール!」なのであって、日本酒の消費量は大きく回復するということにはなっていない。その中で蔵がどんどん無くなっていったのだ。今や実際に酒を仕込んでいる蔵は1,000前後ではないかと思われる。
 和食が世界遺産になり、日本酒も再評価されるつあるが、今や、「日本の文化として残していかなければならない。」などと声高に主張しないと守れない状況にある。

 だから、私は日本酒を愛飲している!ということでもないのだけれど、日本酒が一番性に合っているようで、日本酒だとあまり二日酔いにならない。酒肴をつつきながら朋と酒を酌み交わす。そして、酒の師匠が『ときを呑む』というのを真似て最近私も使っているのだけれど、他愛のないことから人生の悲喜こもごもまで語り合うその時間が何と幸せなことか。今日のストレスを和らげ、明日の生きる糧となること間違いない。
 私が、人の暮らしと日本酒のある風景を大切にしたいと考えるようになったのはそんなことからなのだが、これからのまちづくりを考えるときに、日本酒が一つのキーワードになるのではないかと思っているのだ。一方で、介護が必要になっても住み慣れた地域で暮らし続けることができる町をつくる課題に立ち向かいつつ、もう一方で、日本酒を呑む場を含む日本酒のある暮らしができるまちづくりというようなことを考えている。

 前置きが長くなったけど、昨日は、三冠酒造を訪ねてきた。春に由加神社の境内に瓶に仕込んだ三冠酒造の酒を地中に埋め、地中で熟成させてきたのを掘り出す神事を由加神社で執り行い、その帰りに足を延ばして三冠酒造に行ってきたのだ。
 七代目の前畠眞澄君に案内してもらって、蔵を見せていただいた時に撮ったのが下の写真たちだ。小さな蔵で酒造50石というから一升瓶で5千本という酒造量ということになる。何となく年商がどれくらいか計算できるわけだけれどこれで食べていくのはそう楽ではないことだけは間違いない。七代目は「300石をめざして頑張っている」とのことで、早く実現すると良いね。
 あさひ米の純米吟醸、雄町の純米吟醸、本醸造酒の3種類を利き酒させていただきながら、-7度の冷凍庫に火入れせずに保存していること、蔵のクセ(と七代目)で酸度が高くなること、等の話を聞き、-7度で保存することの必要性や、酸度の高いお酒の美味しい飲み方など日本酒にまつわるあれやこれや語り合いながらの唎酒はとても楽しい時間となったのでした。

蔵の玄関を入ったところにあるショーケース


木製の甑と釜
甑の上を見あえげると木製の大きな滑車が残っています



麹室
DIYで七代目が整備したとのこと

酒造タンク

薮田式の搾り機
この小さいサイズの搾り機は初めて見ました。

唎酒させていただいた三種類


創業は文化3年(1806年)
創業211年になる歴史のある蔵元です。

2017年10月16日月曜日

長島に初上陸

  長島は、瀬戸内海の日生諸島に属する面積6.6㎢の小島である。1927年に日本で最初の国立ハンセン病療養所である長島愛生園が設置され、その時に、村有地・民有地のほとんどが政府によって買収された。また、1938年には大阪府から公立らい療養所(外島保養院)が長島に移転し、1941年に国に移管され国立療養所邑久光明園となっている。
 従来からの住人がいなくなり、患者・職員の住宅、娯楽施設、作業場、看護学校などが建設され、長島愛生園、邑久光明園の関係者のみが住む島となっている。1953年のらい予防法によって患者の隔離政策がとられ、それは1996年まで続くことになった。本州から僅か200メートルの距離にありながら、ハンセン病への差別・誤解によって隔絶され、物理的にも、精神的にも孤立した島であったが、全長185メートルの邑久長島大橋(人間回復の橋)が1988年(昭和63年)5月に開通して本州と陸続きになった。

 ハンセン病への差別・人権侵害事件はもちろん知っていたが、これまで接点のないまま人生を過ごしてきた。だから、1990年に岡山県人になって27年、何度か邑久長島大橋の橋の下で魚を釣ったことがあるが、一度も長島に足を踏み入れたことがなかった。
 今日は、かみさんの誘いで『長島アンサンブル』というイベントに参加するために、初めて長島に上陸することができたのだった。

 パンフレットには、「瀬戸内の海と多様な緑に囲まれた、美しく穏やかな『長島』。
ハンセン病に対する差別や偏見、人権侵害で語られることの多い島だけど、どんなにつらいエピソードも、重たい歴史も、私たちには、なかなかリアルに想像できない。どこか遠くの、遠い昔の、 出来事のように感じてしまう...。
 長島には青い鳥楽団、クローバー楽団などの楽団があったという。強すぎて全国ツアーからなかなか帰ってこれない高校野球部も。
 長島にある資料館では、音楽や作陶、絵画など文芸活動が盛んに行われていた様子も紹介されている。悲しいエピソードのすぐ隣には、同じように、笑いがあり、友情があり、恋があり、歓びがあったはず。大きな大きな歴史の片隅には、一人一人のささやかで前向きな日常の集積があったはず。
 長島の日常と私たちの毎日は、遠いようで近い、もしかすると、隣り合わせにあるものなのかもしれない。本土から長島へ架けられた橋を、軽やかに渡ってみてほしい。
 悲しみだけに目を向けるのではない、みんなの多様で新しい感覚から生まれる、対話・理解の誕生を信じて。」と記されている。

 今日はその二日目で朗読・演奏会が催された。朗読は「阿部はまじ」夫妻、演奏はギター奏者の「伊藤ゴロー」さんである。映像と、朗読、そしてそこにギター演奏が重なり、とても酒脱な空間が出来上がった。子供連れOKということで、その空間を引き裂くような泣き声があったり、騒ぎ声が混じるが、朗読が始まると聞き入るこどもが多く、意外にそれが子どもの絵本の朗読とマッチしていてなかなか良かったよ。
 子供の絵本と侮ることなかれ、大人に対しても「心の中に勇気をもって、おそれずに世の中と向き合っていくんだよ。」「仕事に追われてないで少し周りの小さな自然に目をやるだけで、季節の移ろいを感じることができる。それを忘れないで!」「生きていくということは色んな経験を積むということ。失敗や、間違いや、辛さや、苦しさや色々あってもちゃんと生きるってことが大事だよ。」そんなメッセージを発しているように感じました。心に響く朗読・演奏でした。誘ってくれたかみさんに感謝。

愛生会館

駐車場から愛生会館へ歩く途中の風景

愛生会館から見た風景

2017年9月20日水曜日

まちづくり研究所

NPOすばる『まちづくり研究所』、これが私の今後の活動の拠点である。私の目指すところは、「一人ひとりが、自分の人生を、自分らしく全うできること」であり、そして、それが可能となる地域をつくることであり、ひいては国づくりにまでつながっていくものだ。

まずは、地域がどうなっているのか明らかにし、地域に住む人の暮らしの課題を明確にすることが求められる。そして、その地域課題をどう克服していくのか、解決の道筋を政策提言しつつ、不足する社会資源を地域の人たちとともに作っていくことが私の活動になる。

もちろんその中のいくつかの課題は、NPOとして事業化することも検討している。具体的には、空き家対策を兼ねて低家賃の住宅を形にしたいと思うし、地域に点在するごみ屋敷の整理整頓とその家主のフォローを考えていきたい。そこには遺品整理も含まれるかな。遺品整理って、たんに残った不用品を片付けることじゃなくて、お亡くなりになった方の生きたあかしや文化を次の世代に引き継ぐこと、文化の継承だと思うんだよね。そんな気持ちを持ちながらやっていきたい。

『我が事、丸ごとの地域づくり』と厚生労働省が言い始めている。国が言うと、「安上がりの互助組織作り」だなんて反発が聞こえてきそうだけれど、悪いことばかりじゃない。

人は、一人では生きていけないわけで、地域と関わりながら生きている。自給自足で、衣食住をすべて自分で作り出しているという人がいれば別だけれど、多くの人は、食材をスーパーや魚屋、肉屋などで買い、服をシマムラやユニクロで買って、アパートを借りたり自分の家を大工さんにメンテナンスしてもらったりして生きている。信用を保証してもらうために住民登録したり印鑑登録して、必要に応じて住民票や印鑑証明などを活用して契約したりしている。あまり意識していないかもしれないが、役所を含め社会の様々な組織や人との関係性の中で生きているのだ。

つまり一人ひとりの問題・課題は、同時に地域社会の抱える問題・課題でもあるのだ。だから、『我が事、丸ごとの地域づくり』という厚労省の提案は至極当たり前のことを言っているだけのことなのだ。

国は国民を団結させないために常に分断してきた。マスコミをうまく使って、例えば、「富士見産婦人科事件」をセンセーショナルに取り上げたり、「病院が高齢者のサロン化」しているといい、「検査漬け」・「薬漬け」医療と批判したりして、医療は悪いものというイメージを国民に植え付けながら診療報酬切り下げを断行して見せた。
3K赤字(米、国鉄、健保)と喧伝し、国の財政を困難にする悪者のように描きながら、生産者米価を切り下げるなど日本の農業を破壊し続け、結果として食料自給率は先進資本主義国で最低の40%未満にまで落ち込み、国鉄は民営化され、健康保険本人の負担割合はゼロから3割負担へと大幅に負担が強化された。
新自由主義で競争をあおり、「負け組」から「勝ち組」を目指すことを国民に迫り、国民一人ひとりが分断されてしまった。地域にはもともと助け合う文化があったのに、それを新自由主義で破壊し、介護の世界でみればサービス提供事業所と利用者の契約に矮小化してしまった。制度の持続可能性云々ですでに全国一律の保険制度の体をなしていない制度になってしまった。
ここまできてやっと気づいたんだね。昔の村落共同体の助け合い組織の素晴らしさに。そしてその共同体的な助け合い組織こそが一番財源がかからない仕組みだってことに。しかし、いったん壊したものを再生するのにはすごいエネルギーが必要で、それぞれの自治体でいろんな努力が始まったところだけど、効果を出すには暫く時間がかかりそうだ。

日本には協同組合があり、新自由主義に翻弄されることなく、「分断」ではなく「団結」や「連帯」が大切だということを事業と運動で示して見せた。その経験を大切にしながら、地域共同体の再生をめざすこと。それが私の仕事になる。

2017年1月16日月曜日

虹の家リニューアル

瀬戸内海を臨む玉野市は、坂の町でもあります。写真の真ん中辺りに、23日にリニューアル・オープンするデイサービス虹の家がみえます。

2016年9月18日日曜日

水辺のももくん

水辺のももくんは、岡山後楽園地先、旭川のほとりに立っています。1989年に岡山市制100年を記念してこの場所に設置されたものです。後ろに後楽園が見えて、良い感じの風景ですね。
 後楽園で見つけたドクダミの花。全草に強い臭気があるが加熱すると臭気が和らぐため、山菜として天婦羅で食べたりします。また、葉を乾燥させてドクダミ茶を作ったりもします。名前がドクダミだから毒草みたいですが、漢方では解毒剤として使われます。臭気成分に抗菌作用があり、動脈硬化の予防にもなるとのことで、名前の印象よりも良い奴なんだなぁ・・

2016年7月24日日曜日

梅雨があけて

梅雨が明けて、本格的な夏が来た〜!って感じです。写真は、我が家から200mくらい西に流れる百間川を川上に向かって写したものです。百間川は、江戸時代に旭川の氾濫から岡山城下を護るため、岡山藩主池田光政公の命により築造された人工河川で、旭川放水路の別名もあります。百間川の由来となったのは「二の荒手」の幅が、堤防を含めて百間(約180m)あったことによります。正面に橋が写っていますが、その上流に二の荒手があります。

豊かな水をたたえた百間川ですが、多様な生物の宝庫でもあり、ヌートリアが泳ぎ、ウシガエルが鳴き、流れの中にカイツブリの巣があったり、イタチが小魚を捕っていたりします。

そして、百間川の両岸の河川敷の遊歩道は、私の散歩コースでもあります。

2016年7月4日月曜日

4月の写真だけど

 4月、例年通り第3金曜日に高知に行ってきた。ご存じひろめ市場、名前の由来は土佐藩の家老・「ひろめしげあき」に由来するとか。キリンラガービールのコマーシャルに書いてある「たっすいがは、いかん!」の意味が今イチ良くわからない。張り合いがないとか、手応えがないという意味らしいが、感覚的にどんなモノなのか今イチわからん。

ひろめ市場入り口の左手の壁には馬路村のコマーシャルが・・ちょっと足を伸ばして馬路村に行ってきたけど、遠かった。しかも一本道で、帰りは安田町に戻って高知市方向に走り高速道路に乗るかした道を通るかだけど、いずれにしても馬路村はおそろしく行きにくい場所にあることは間違いない。 でも、柚子ポン酢は旨いね!

高知城に登っていくと山内一豊の妻の象が立っている。

夕方、暮れなずむ頃の高知城・・高知城は本丸の建造物が完全に残るお城なんだなぁ。名城の一つだね。

2016年4月5日火曜日

銀座のヘイトデモとマスコミ

ヘイトデモとマスコミ報道

この記事面白い。全国紙と地方紙の報道姿勢の違いに驚いた。特に神奈川新聞の記事を報じたこの部分「ことし1月31日、再び桜本を狙うデモが計画された。前回より規模が大きい。石橋記者は前回のデモに衝撃を受けた少年(13歳。父は日本人、母は在日コリアン3世)の言葉を紹介しながらこう続けた。
〈少年は再び抗議の沿道に立つという。(中略)一人にはすまい。絶望以上の希望を見せるのだ。社会を壊す害悪としてヘイトスピーチを非難する。(中略)悪罵で社会の公正がゆがめられたなら、倍なる声で押し戻す〉」
こんな風に読者に行動提起する記事を新聞で読んだことがあるだろうか。ほとんど記憶にない。でも、本来はこうなんだろうな。つまり、まずは社会正義を基軸に、国民に、今、何が起こっていて、それを国民目線でどう伝え、その問題を解決するための行動につなげる・・それを通じて地域社会を、国を、少しでも国民にとってより良いものに変えて行く、報道の役割はそこにあるのだろう。
頑張っている地方紙は、応援したくなるね。

2016年3月31日木曜日

東京を歩く

代々木公園の国民大集会に参加した翌日、久しぶりの東京を歩いた。宿の神田から慶応大学のある三田までを2時間近くかけて歩いたのだけれど、途中で、色んなものを発見した。その写真をアップロード!

 皇居の大手門につながる「永代通り」と「日比谷通り」の交差点近くに「日本歯科大学発祥の地」の碑がある。
 ここは、日本歯科大学の前身である「私立共立歯科医学校」が明治40年にこの地で創立された記念碑とのこと。


 
 その少し先には、『スカイバス』が停まっており、皇居乾通の一般公開めあての観光客が大勢道路を歩いており、どうやらスカイバスを使ってのバスツアーも皇居がコースに入っているようだ。

 この2階建て東京観光バスは、途中下車無しの車窓観光バス、乗り降り自由の観光バスの2種類あり、この赤いバスは車窓観光バスのようだ。



 



 そのまま南に歩くと、明治安田生命保険相互会社と看板の出ているビルがあり、写真はその重厚そうな扉を写したもの。歴史を感じさせる建物だなぁ〜。
 そこからさらに南に歩くと、帝国ホテルがありその前に『農産陳列所 蚕病試験場跡』の立て看板があった。
 明治政府は産業奨励のため、この地麹町区内山下町一丁目一番地(現千代田区内幸町)に農産陳列所を設置。当時日本の輸出品の中心は生糸であったので、明治17年(1884)4月、ここに蚕病試験場を設けて特に蚕業の振興を図ったのだということだ。
 この施設は明治19年(1886)西ヶ原(現北区西ヶ原)に移り、東京高等蚕糸学校となり、さらに昭和15年(1940)小金井町(現小金井市)に移転し、東京農工大学(現工学部と農学部の一部)になっているとのこと。



 皇居付近は大勢の人が皇居を目指して歩いていたが、日曜日ということもあって、ここまでくると歩行者の数も減ってのんびりとした時間が流れていた。


中華鍋の裏側に文字を書いて看板にしている!

東京タワー

東京タワーの近くで、マリオに扮した一団を発見

JR恵比寿駅前の『恵比寿』さまの象