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2018年6月6日水曜日

個人主義を考える

 最近、個人主義とは何かということを考える機会がありました。困ったときのWikipediaで調べてみると次のように書かれています。

 国家や社会の権威に対して個人の権利と自由を尊重することを主張する立場。あるいは共同体や国家、民族、家の重要性の根拠を個人の尊厳に求め、その権利と義務の発生原理を説く思想。ラテン語のindividuus(不可分なもの)に由来する。対語は、全体主義・集団主義。

 「日本は、欧米の個人主義思想を学んだ。」と言われていますが、本当にそうでしょうか。欧米諸国は地続きで人が行き交う多民族国家です。色んな人種、宗教、文化的な価値観を持つ人たちが集まっているわけですから、一人ひとりの違いを認め合い、自由を尊重し合うこと抜きには集団が成り立たないわけです。そのうえで会社などの組織では、チームワークで仕事を片付けていくということになるわけです。

 ところが日本は島国で、長い歴史の中で互いの常識を「暗黙の了解」で共有できるほど同質性の高い国民です。最近、若い人たちとつきあうと、ちょっと違うかなという感覚を覚えることもありますが、コミュニケーションを多少省略しても分かり合うことができたのです。そこに個人主義という考え方が入ってきたのですが、その時に、誤解が生まれたように思います。多くの日本人が考える個人主義は、実は、利己主義ではないかと私は思うのです。

 例えば、電車やバスを思い描いてみてください。自分も含め、若い人たちが座席に座っています。そこに、足元のおぼつかない高齢者が乗車してきました。誰も席を譲ろうとしません。この席は私が先に座っていたので、私が降りるまでの間、この席は私に占有権がある、この席に座り続けることは私の権利である!というわけです。
 あるいはまた、会社でみんなが残業している場面を想像してください。てきぱきと要領よく実務をこなす人がいる一方で、じっくりと正確性重視で実務を進める人がいて、早く仕事が済む人、時間がかかる人に分かれます。早く済んだ人は、私の担当業務は終了したので、お先に失礼します!といって帰っていきます。自分の仕事を早く終えたので、みんなより先に帰る権利がある!というわけです。

 これらのことは、私は、日本人の利己的な性格の表れだと思うんです。けっして個人主義ではありません。個人主義は集団に所属する一員としての役割や権利をお互いに尊重しあうことであって、一人ひとりが好き勝手にすることとは違います。当事者が解決できない問題で行き詰まっているのであれば、周囲の人間が助けるのが当たり前、そう考えることができるのが欧米での個人主義なのだろうと思います。ところが日本人は個人主義を利己主義のように理解してしまっているようです。

 利己主義を批判する人が、個人主義と称して実は利己的にふるまっている・・・。そんな姿を見るたびに、個人主義を正しく理解していないという思いを強くするのです。

2018年5月14日月曜日

初心忘るべからず

 先日、古い友人と酒を酌み交わす機会があった。その時に、「貴方はブローカーであり、デベロッパーなんだから、リラクゼーション・セラピストなんか似合わない。ブローカー、デベロッパーであるべきだ。」と言われた。私がブローカー(仲買人)だ、デベロッパー(開発者)だという指摘が当たっているのかどうかという疑問が無いわけでもないが、少なくとも彼のいうようにセラピストという柄じゃいないのは間違いない。
 でもね、揺れるんですよ。何とかする自信があって自立したわけだけれど、そう簡単に仕事になるわけも無く、苦戦が続く中で、ふっと魔が差したようで(勿論それだけではないのだけれど)、目先を変えてみようとリラクゼーション・セラピストの研修を受けたのだった。それはそれで面白いのだけれど、何だか自分のやりたいこととはやっぱり違うとも思いながら、実際に、店舗でサービスに携わるようになってもいた。そこに冒頭の話ですよ。
 一寸衝撃を受けたね。やっぱりそうなんだなぁ。自分のやりたいこととは全く別物だよな、ということがすんなり腹落ちした気がした。初心を忘れては行けない。少しうまくいかない時間が続いたくらいで揺らいでちゃ駄目だね。彼と酒を飲みながら素直にそう思ったのだった。
 リラクゼーションのお店の方も、すでにローテーション入りしているので、急に辞めるわけにも行かないがローテーションから外してもらう方向で本部に調整してもらって、遠くない時期に本来自分がめざしていたことに集中できるよう整理しよう。そんな決意をしたのだった。
 持つべきものは良い友だね。忌憚の無い意見をはっきり言ってくれるし、それでいて、いざとなったら力を貸してくれる。なかなか良い時間を過ごさせてくれた友に感謝である。

 さてそこで、私は何をやろうとしているのか、あらためて整理しておきたい。私がめざしたいのは、「地域共同体の再生」である。新自由主義の考え方が日本の政治と経済を動かしている。国家による福祉・公共サービスの縮小、大幅な規制緩和と市場原理主義の重視の中で、日本で何が起っているのかといえば、自由な競争という名で国民の自由が奪われ、ごく少数者への富の集中と、圧倒的多数の国民の貧困化がすすんでいる。国民は一人ひとりに分断され、地域共同体も崩壊してしまった。地域共同体の崩壊が社会保障関係予算の増大につながっていることに気づいた厚労省は、最近になって「我が事、丸ごと」の地域づくりなどと言いはじめているが、元をたどれば国が地域共同体の破壊をすすめてきたのだ。
 私は、長く協同組合に身を置き、協同組合の現代的な課題は何かというようなことをずっと考えてきたが、1980年のレイドロー報告が私にとっては一つのバイブルになっている。彼が提起した「協同組合は未来の歴史を書く資格があるのか?」というテーマは、私にこれからの私の仕事を考える重要なテーマを与えてくれたのだ。
 私は世界の人々が協同することぬきに、未来の歴史は書けないと思っている。かといって世界に向けて、世界中の人々よ団結せよ、連帯せよ、と叫んだところで協同することにはならない。生活圏を同じくする人たちを共同体として再生させていき、その小さな単位の共同体がつながって世界が一つにまとまっていくのだろうと思う。
 めざすは世界が一つになること。そしてそのために、まずは私も暮らすこの町で共同体を再生させること、それが私のやろうとしていることなのだ。あらためてそこを確認し、まずは何からはじめるのか、考えるところからはじめよう。といっても考えているだけでは何も変わらないので、動きながら、考え、方向を見定めて、動きを作り、そしてまた考えるという作業を繰り返しながら、めざすべきものを見失わずにやっていこう。

 何だかそんなことを考えるだけで楽しいじゃないか。

2018年3月9日金曜日

モノづくり

 日本のモノづくりがあやしい。いつの頃からかそういう思いが強くなった。もちろん真面目にモノづくりに取り組んでいる中小企業の社長さんや、そこで働く名人・達人たちを何人も知っているし、その人たちの仕事ぶりを高く評価しているのだが、私が言いたいことは個別具体的なモノづくりの現場のことではなく、日本のモノづくり全体の雰囲気というか、空気感というか、それがおかしくなったということだ。

 そもそもモノづくりには職人の育成が欠かせない。例えば私の好きなお酒の世界でいえばこんな具合だ。
 ワインのソムリエになろうとしたら、高校を卒業してすぐにブドウづくりを学ぶために農園で働き、3年、4年かけてワインの原料となるブドウのこと、ブドウづくりのことを学ぶことになる。そして一人前のブドウ農家になることができたら次のステップに進む。
 今度は、ブドウからワインを作る醸造家のもとでワインづくりを学ぶ。ブドウが実りワインを作れるのは1年に1シーズンしかないので、ワインづくりを学ぶには最低でも3~5年かかる。
 原料のブドウづくりから始まって、ワインづくりまで最低でも6、7年かけて学び、そしてようやくソムリエの修行に入ることになる。各地のブドウ畑の特徴を覚え、その畑のブドウで醸したワインの性格を知り、そして料理との相性を学ぶ。ソムリエと呼べるのはこうした10年余の努力を怠らなかった人のみ、というわけだ。

 真の職人を育成するためには最低でも10年というスパンで何を経験させ、何を学び、どういう職人に育てるのかという壮大なビジョンが必要というわけだ。鉄から製品を生み出すとすれば鉄そのものを知ることから始めなければならないし、絹織物を作るならば養蚕から学ばなければ、その道の達人にはなれない。原料生産にまで精通して初めて、原料の質の差を技術で埋めることができるようになるし、無理な注文にも応えることのできる技術を身に着けることができる。そういう真のプロフェッショナルがモノづくりの現場にいないこと、あるいは真のプロフェッショナルが評価されないことが、昨今の日本メーカーの品質問題を引き起こす原因になっているのではないか。私はそう思っているのだ。

 グローバルスタンダード、ISO9001、企業ガバナンス、コンプライアンス、こうしたことがそのままカタカナ語で語られているが、本当の意味を知って使っているのか甚だ疑問だ。例えば、ISO9001を入れて、何から何までマニュアル化された。マニュアル通りにやっていればちゃんとした製品が作れる、利用者に快適なサービス提供ができると錯覚するようになった。マニュアルが独り歩きし、マニュアルにないことがおこると、それをカバーするために新しいマニュアルが整備され、どんどんマニュアルが分厚くなっていく。モノづくりが材料をよく見て、そこからモノを作り出していく作業から、マニュアルを見てマニュアルにあてはめる作業に変わった。完成品をみて評価するのではなく、マニュアル通りに生産過程が進んでいったかが重要になる。こうしてモノづくりからモノを作る職人が疎外されていった結果品質事故が起こるのだ。

 新聞の切り抜きにここ数年の品質問題が載っている。何と嘆かわしいことか・・
2018年3月8日付 しんぶん赤旗

2018年3月1日木曜日

グローバル経済の迷宮 4

 かつて、自動車産業は、日本の製造業と日本経済を支えてきました。しかし、拡大してきたのは海外生産のみです。少し古いですが、グラフを見ると1990年から2014年の推移をみると一目瞭然で、海外生産を1,420万台増やしながら、国内生産は371万台減らしています。今後の経営戦略でも海外生産のみを増やしていく方向です。

 さらに自動車各社の生産システムの改革によって、部品のモジュール化が進み、共通部品やモジュールの組み合わせで、あらゆる車種を生産しようということになっています。従来、一次、二次、三次などの下請けメーカーと一緒に車種ごとに自動車の品質を作り込んできました。モジュール化によって従来よりも桁違いに多い部品やモジュールの供給を下請け企業に求めるようになっており、従来の下請けでは対応できません。自動車産業の下請け企業も、国内企業が切り捨てられ、安い部品を供給する中国企業に変えられてきています。

 自動車製造業の出荷額は52兆円(2014年)で、主要製造業の出荷額の2割を占め、自動車産業の労働者数は雇用労働者の約1割です。「自動車産業は日本の産業を支えるフロントランナー」と言われる所以ですが、今、自動車産業は、下請けも含めて崩壊の危機に直面していると思います。

 国境を越えて、最適地で生産するグローバル企業の経営行動は、本当の意味で、グローバル企業の成長につながるのでしょうか。国民をぼろぼろにし、技術を流出させ、それで企業の繁栄が築かれたとしても、日本の未来は暗澹たるものになってしまうでしょう。国内生産を守り、技術を蓄積し、新しい製造業の姿を創造していくことが日本の製造業全体の大きな課題となっていると思います。


説明を追加2018年2月23日付 しんぶん赤旗

2018年2月28日水曜日

グローバル経済の迷宮 3

 かつて、日本の電機各社は、半導体や情報機器で世界のトップに立っていました。1990年の半導体生産では世界のトップ10に6社が名を連ね、1位から3位を日本企業が占めていました。しかし、一昨年のシャープが買収され、東芝が買収され、NECのパソコンもレノボに吸収されるなど、電機産業は崩壊しつつあるという状況です。

 何故、そんなことになってしまったのか。答えは簡単です。生産を海外に移転する際に、現地で技術指導するわけですが、それにより生産の海外移転だけではなく日本の持っていた技術が海外移転してしまったわけです。国内生産をおろそかにした結果、国内の技術は陳腐化し、新技術の開発では圧倒的な差ができてしまったというわけです。

 技術立国の時代はどこへやら、世界が進化する人工知能(AI)など新たな産業革命のさなかにある中、日本だけが取り残されてしまっている状況です。
 日本は明治維新後、欧米から学ぶことから出発し、技術を改良して魅力的な商品を創ってきました。最近のノーベル賞ラッシュを見ても、日本が発明力で優れていることを物語っています。だとすれば、もう一度モノづくりの原点に立ち返って、新しい研究成果を取り込みながら、安心して使うことのできる良い製品を市場に出すことと真摯に向き合い、新しい時代の要請にこたえる技術者を育成するところからはじめたらどうだろうか。


2018年2月22日付 しんぶん赤旗

2018年2月26日月曜日

今年の介護報酬改定ってどうなの?

 今年4月、診療報酬と介護報酬の同時改定が予定されています。全体としては0.54%のプラス改定となりましたが、本当に介護が良くなるのか、疑問視する声もあがっています。

 国は今回の改定を「団塊の世代が75歳以上となる2025年に向けて、国民1人ひとりが状態に応じた適切なサービスを受けられるよう、『地域包括ケアシステムの推進』、『自立支援・重度化防止に資する質の高い介護サービスの実現』、『多様な人材の確保と生産性の向上』、『介護サービスの適正化・重点化を通じた制度の安定性・持続可能性の確保』を図る。」ためのものだとしています。

 地域包括ケアシステムは、団塊の世代が後期高齢者となる2025年をめどに重度の要介護状態になっても住み慣れた地域で最後まで自分らしく暮らし続けられるよう、住まい、医療、介護、介護予防、生活支援が一体的に提供される仕組みだというのが政府の建前です。
 介護を必要とする度合いが重度の方が施設に入らずに地域で暮らすためには、定期巡回型訪問介護・看護や小規模多機能型居宅介護、夜間訪問介護などのサービスが十分そろっていなければなりませんが、現状は、定期巡回型サービスの普及は極めて少なく、小規模多機能型事業所の確保もまだまだ足りません。
 国のこの間の介護政策は、医療的ケアが必要な中重度者に重点を絞り、軽度者は介護保険給付外へ誘導していこうという流れでした。これは、介護保険の「自立した日常生活を営むのに必要な給付を行う」という理念に反するものだと言わざるを得ません。

 「統計的に見て通常のケアプランとかけ離れた回数(※)の訪問介護(生活援助中心型)を位置付ける場合には、ケアマネジャーは市町村にケアプランを届け出ることとする。市町村は地域ケア会議の開催等により、届け出られたケアプランの検証を行い、必要に応じ、ケアマネジャーに対し、利用者の自立支援・重度化防止や地域資源の有効活用等の観点から、サービス内容の是正を促す。」というルールが導入されます。要するに、利用回数が不適切だという検証結果となったら回数を減らせという是正が求められるということであって、私は、これは「生活援助の回数減らしルール」だと思います。度々是正が求められるとケアマネージャーが自主規制して「生活援助は1日1回」などのカンパニールールも広がりかねないと思います。
※通常のケアプランとかけ離れた回数の判断は、「全国平均利用回数+2標準偏差」を基準として平成30年4月に国が定め、10月から施行するとしています。

 さらに身体介護と生活援助の報酬上の格差が広がったことで、経営が厳しい事業所では多数回利用ができない生活援助は減らして、身体介護に集約する動きがでてきます。生活援助に特化した研修受講で付与される資格が新設されますが、担い手拡大につながるのか、制度として維持できるのか疑問です。すでに、要支援者向けの総合事業によるサービスの担い手について、各自治体が研修制度をスタートしていますが、担い手は広がっていません。というのも、全国で250の自治体でサービスを廃止する意向を示している事業所があることが分かっていて、人材不足と報酬が低すぎて経営的にやれないという状況にあるわけです。
 要介護度軽度の利用者の生活援助については総合事業へ移行する案も検討されているようですが、総合事業によるサービスを提供する事業所が減っていこうとしている中で、政府の思惑通りにはいかないことが予想されます。

 深刻な人手不足をどうするのかという問題があるわけですが、国の方針を見ると、先に見たような簡易な研修制度を新設し資格のハードルを下げることと、介護ロボットや見守りシステム、ICT活用などの省力化をすすめることしかありません。別の仕組みで、外国人技能実習生を介護職員でも導入できるようにしたり、全国的・全産業的労働力不足への対応で、外国人労働者の確保に向けた動きが出てきていますが、文化や価値観の違いがあり、少なくとも、介護現場での即戦力として期待できるようなことにはなりません。

 2018年度介護報酬改定は、報酬引き上げという形を作りましたが、残念ながら、介護を充実させ、職員の処遇が改善され、地域包括ケアシステムが前進するものだとはいえません。
 必要な介護を、必要とするときにはいつでも、大都会だろうが農山村・離島などどこに住んでいても、必要な量のサービスを受け取ることができる仕組みこそが地域包括ケアシステムでなければなりません。

 消費税に反対の立場ですが、消費税収入を社会保障財源に充当するのであれば、これまで法人事業税の減税に使われていた分も含めて社会保障財源に回せば財源は出てきます。あるいは国民が求めているわけでもないリニア新幹線の開発や、肥大化してしまった軍事費を見直すなど、財源を生み出す方法はいくらでもあるわけです。憲法25条に規定する健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を守る立場で、介護サービス等社会保障を充実させ、介護労働者の処遇を改善し、介護の担い手になることを決意する若者を増やす、そういう仕組み作りこそ、今、求められていることではないかと思います。

2018年1月5日金曜日

2018年を人生最高の年に

 年があらたまってもう4日が経った。今日まで正月休みということにしているのだが、溜まった新聞や年賀状を取り込まなければならないので、事務所をのぞいた。そういえば宝くじを買っていたのを思い出して、7億円当たったら何に使おうかと思いながらチェックしてみたけれど、30枚買って当ったのは300円×3枚で回収率1割という結果だった。買っても当たらないのだけれど、買わなければ100%当らないところだが、買えば7億円の夢を見られる。外れても4割ほどは公共事業に使われると思えば、社会貢献につながっているのも事実。まあ、それで良しとしよう。
 占いを信じるほど純粋ではないけれど、SNSで招待されたので軽い気持ちでやってみたら「2018年は人生最高の年になる」という結果で、大層驚いた。でも、良いメッセージとして受け止め、最高の年となるようちょっと頑張ってみようと決意したのでした。

 さて、2018年にはどんなことが待っているのだろう・・・・・・

 1月には、介護福祉士の国家試験が待っている。合格できるよう試験対策の勉強もまずまず予定通り進んでいるので、何とか合格できるように頑張りたい。世界に目を転じると、今月からロンドン市内のタクシーが、温暖化ガス排出ゼロ車種以外の新規登録ができなくなるんですね。日本も考えていかないとなぁ。

 2月~3月、平昌オリンピックで日本選手がどんな活躍を見せてくれるのか楽しみに待っている。女子スケート短距離陣には金メダルを期待したいし、スキーのジャンプや複合でも金メダルが期待できる。寝不足になりそうだけれど、今から楽しみだ。また、2月初めにはNCS事業協同組合が無事に外国人技能実習生の管理団体の認可が下りる予定で、今年は、本格的に外国人技能実習生の受け入れが待っている。

 3月に入るとすぐ、診療報酬・介護報酬の改定の内容が発表される。今年の改定で医療や介護がどうなっていくのか。これが気になるところだ。診療報酬のほうは、診療報酬本体部分が0.55%のプラス改定。薬価等については▲1.65%とされ、介護報酬は0.54%のプラス、障害福祉サービス等報酬については0.47%のプラス改定となる。細かなところを見ないと何とも言えないが、最近の傾向は、基本部分は上げずに、加算要件を満たすと加算が算定でき、加算が算定できれば収入も増えるという仕組みになっており、この加算をしっかりとれるかどうかが報酬増となるかどうかの分かれ道とされることが多い。具体的にどうなるか詳細を把握し、実績にあてはめ、プラスかマイナスかを評価してみないと何とも言えない。

 4月1日に、診療報酬・介護報酬の改定。また、5月投票で、日本福祉大学のN先輩の備前市議会議員選挙の戦いが本格化する。国内の動きでは、大阪市の市営地下鉄が民営化され、神戸空港の民営化も始まり関西3空港の一体運営に代わる。外国人技能実習生の受け入れ等でベトナムや中国、ミャンマー等東南アジア地域へ出ていくことが増えそうなので、関西3空港の一体運営は興味のあるところだ。

 5月、憲法記念日のころには、自民党改憲案を中心にして、具体的な改憲発議の内容について政権与党での検討が始まりそうだ。そして年内には国会発議をとりまとめ、2019年の早い時期に国民投票に持ち込もうというのが安倍首相が考えている日程ではないかな。とすると、夏場が憲法改悪を許すかどうかの闘いの山場となりそうだ。

 6月に、国民投票の投票年齢が18歳以上になる。若い彼らが憲法改正にどんな意見を持っているのか興味のあるところだ。彼らの投票行動が憲法改悪を許すかどうかにつながっていることは間違いないからね。そして、ロシアでFIFAワールドカップが開幕する。

 今年の前半を見ただけでも既に色んな予定が決まっている。こうした中で人生最高の年とするために、私は何をしよう。

1.外国人技能実習生の受け入れを軌道に乗せていく。
 ▶NCS事業協の組合員を増やす
  ・協同組合陣営との連携を具体化する。
  ・介護事業所の組織化を進める。
 ▶送りだし機関との契約・連携の強化
  ・ベトナム、中国、ミャンマー
2.日本の農林漁業を再構築するために何ができるか考える。
 ▶農業に取り組む若い人たちのネットワークをつくり、食料主権をすすめる。
  ・和食が世界遺産になり、見直される和の食材の生産・販売ネットワークの開発
  ・東南アジアからの産直運動を形にする。
3.暮らしの困った何でも相談所の活動を地域に認知してもらう。
 ▶民生委員さんとの連携を強化する。
 ▶社会資源を活用した広報活動を重視する。
4.地域情報誌発行を具体化する。
 ▶500部の読者を確保し、月2,000部の発行からスタートする。
5.医療・介護制度の改正に対応し地域資源の発掘・開発、ネットワークをつくる。
 ▶介護事業所のコンサルタント契約を目標数値を決めて取り組む
6.社会教育に取り組む。
 ▶地域での学習会の組織及び講師活動に取り組む(介護保険制度、まちづくり)。

 2018年の私の事業活動は、これらのことから着手していきたい。厳しい経済環境、憲法改悪との闘い、課題山積だけれど、この身は一つ。やれることはしれているけれど、志を同じくする仲間の輪を広げながら、仲間と一緒にこれらのテーマに挑戦する一年にしたいと考えている。

2017年12月29日金曜日

貴乃花親方理事降格

 貴乃花親方の理事解任を相撲協会の理事会が決めた。貴乃花親方はむしろ被害者側なのに、加害者側である伊勢の浜親方と同じ処分では重すぎるのではないかという論調が多いような気がするが、それは違うだろうということで一寸書いておきたい。

 鳥取巡業は巡業部長である貴乃花親方が全体の責任者として帯同していた。その巡業先で力士同士の喧嘩が起った。単なる喧嘩で済ませることができる範囲を超え、被害者は頭頂部に9針縫うほどの裂傷を負った。部屋の親方としては警察に被害届を出したことは間違ったとは思わない。しかし、もう一方の巡業部長という立場でいえば、当然のこととして相撲協会に正直に報告するべきだった。

 貴乃花親方が相撲協会に不信感を抱いていたとされているがそんなことは関係ない。貴乃花親方自身協会の理事であり、相撲協会の意思決定に加わっている一人なのだ。警察に被害届を出しているわけだから、警察の捜査が進めば何が問題なのかは自ずと明らかになる。相撲協会が曖昧な解決をめざしたところでそれはできない相談なのだ。だからこそ、貴乃花親方は自分の把握している出来事を正直に報告するべきだった。相撲協会が有耶無耶にする恐れがあると感じたのなら文書で提出すれば良い。いざとなったらその文書をマスコミに提供して取り上げてもらう等やり方はいくらでもある。

 私は、事件の端緒から貴乃花親方の協会理事・巡業部長としての責任放棄がこの事件の処理をズルズルと長引かせた直接の原因だと考えている。

 例えば、東京本社の全国的に有名な大企業が、鳥取県への営業活動に、営業本部をあげて、いくつもある課の課長とそのスタッフの参加する大きな営業チームを編成し、その責任者として常務を帯同させたわけですよ。そこで課ごとの縦割りではなく、例えば鳥取県人会のような宴席で大げんかが勃発して、警察ザタになった。全国的に名前の売れている会社だから事が公になると他の県での営業にも影響が出るわけだから、当然本社に、取締役会に報告し、警察の捜査と同時に社内でも真相究明委員会を設置しようということになる。ところが、常務からの報告はなく、警察からの連絡で本社は初めて事件の重大さを認識し、真相究明委員会を設置した。
 怪我をさせた課長は自ら辞表を出し、その課長の上司である取締役部長も役員を辞任すると取締役会に進退伺いを出した。一方、担当常務は取締役会から事実関係を問いただされても、まともに応えない。直接の部下である被害者の事情聴取にも協力せず、被害者の部下が入院している病院も教えない。そんなことが起ったわけです。
 この担当常務は、間違いなく直近の取締役会で解任が提案され、おそらく、会社にもいられなくなりますよ。

 巡業部長が被害者の関取の親方だったことで貴乃花親方=被害者と見られていますが、それは違う。被害者は怪我をした関取、加害者は殴った元横綱で、伊勢の浜親方にも監督責任があるでしょう。そして、警察ザタになるような事件が起ってしまった責任は、相撲協会、直接的には地方巡業全体に責任を負う巡業部長ということです。だから責任を問われて当然なんですよ。
 加害者側の伊勢が浜親方と同じ処分では重すぎるという意見がありますが、伊勢が浜親方は理事の辞任届を理事会に出しているわけで、自ら責任を感じ、自分から理事を降りるという決断をした。そこが貴乃花親方と決定的に違う。貴乃花親方は自分の処分が決まる理事会では弁明に終始したと報じられているわけで、責任を感じている者と責任を感じていない者に対する処分が同じはずはない。責任を自覚していない者に対する処罰が重くなるのはやむを得ない事だろう。

 もっとおかしいと思うのは、八角理事長がわざわざ「次の理事選挙に出る事は可能」と説明した事なんですね。理事解任を決めたけど、その処分は実質的にはそんなに重い処分ではないからねと、何だか言い訳をしているみたい。誰に、何のための言い訳なのか意味不明。理事会が出した結論をあまり余計な解釈を含めずに淡々と伝えれば良かったのだと思うんだけどどうだろう。

 こんなことを書きながら、自分が意外に相撲が好きなんだということ感じているわけですよ。だからムキになってこんな事を書いているんだなぁ。

 そして、私が一番気にしているのは、貴の岩関がちゃんと復帰できるのかどうかという事ですね。モンゴル力士会のこと、相撲に対する価値観の微妙なズレ、怪我からの回復と同じモンゴル出身の元横綱からの受けた大きな怪我によるショックからの回復、マスコミのこの事件の扱い方、貴乃花親方の対応と本人の気持ちが一致しているのかどうか等々、色んなものを抱え込んじゃったからね。ただただ、元気に土俵に上がってくれる日を待ってますよ。

2017年12月25日月曜日

求職活動

 雇用保険の基本手当をいただいている。いただいておきながら文句を言うわけにもいかないが、あまりにも制限的なので、改善をしていただきたいことがある。すでに、離職理由によっては給付制限を受けることについて、それはおかしい旨書かせてもらっているので、その後制度を利用させてもらって経験した問題点を明らかにしておきたい。

 そもそも、「社会保険制度(英語: Social insurance schemes)とは、社会保障の分野のひとつで、疾病、高齢化、失業、労働災害、介護などの事故(リスク)に備えて、事前に雇用者もしくは雇用主、あるいは両者が社会的供出をすることによって、保険によるカバーを受ける仕組みである。」
 雇用保険はそのうち失業という生計を維持するのが困難な状況に陥った時、働いていた時に本人及び雇用主が支払っていた保険期間・保険料に応じて、失業手当を支給し労働者が次の仕事を見つけるまでの間、その収入を保障しようという仕組みである。したがって、離職理由は本来ならば無関係だ。仕事をなくしたという事実に対して、失業等給付が受けられるというシンプルな仕組みにしないと利用しにくくて仕方ない。

 例えば、「月2日の求職活動」が義務付けられているが、私の場合、1月末に介護福祉士の国家試験を受けるので、失業給付を受けながら試験勉強をしたいということについては初回の面接で申告しているわけだ。そしてハローワークからも「介護福祉士資格で働ける場所を探しているのですね?」と尋ねられ、具体的にどうなるかは別にして、基本的にはそういうことになるわけなので、「その通りです。」と答えたている。であるならばですよ、国家試験までの間の求職活動はしないと言ってはいけないかもしれないが、しないですよね。資格がとれるか取れないかわからないのだから。

 それから失業認定日の問題。認定日に出頭しなければ、原則として認定対象期間全部について失業の認定はされないことになる。一方的に指定して、この日に来られなければ失業認定しないという仕組みなんですよね。失業者にだって暮らしがあるわけだから、例えば●月✖日から◆月▲日までの間に失業認定日を指定するので、「何日がいいか?」と聞いてくれるくらいの大らかさがあってもいいんじゃないかと思う。やむを得ない理由(その日が採用試験や資格を取るための試験に当るとか、定められた範囲内の親族の冠婚葬祭など)の場合に認定日が変更できることになってはいるけど、事前にハローワークに連絡したうえで指示を受けることになっており、きわめて制限的だ。

 人は誰しも、大なり小なり、失業という将来への不安を抱え、そうでなくても暗澹たる気持ちを抱えてハローワークを訪ね、失業手当で食いつないでその間に何とか生業を得ようとしているわけだ。社会保険制度なんだから、失業という動かしがたい事実のみを根拠に、基本手当を支給し、この手当が出ている間に次の仕事を見つけようねと、労働者を温かく励ます、そんな制度にならないものかねぇ。

2017年12月6日水曜日

新たな試み

 今週は、名古屋出張で始まった。名古屋で、一つは事業協同組合の設立のお手伝いをする予定で、新設する事業協同組合の中心メンバーの方たちと打ち合わせ。志はあるが、方法論がわからないということで、私は、すでに事業協同組合を3つ設立してきた実績があり、介護事業のコンサルをやっていることもあって、大先輩のMさんから「手伝ってやってほしい」と頼まれて、出かけて行ったのだった。
 お話をお聞きすると、協同組合を作って介護人材の確保の仕事をするという目的意識のもとで、すでに必要なメンバーは集まっている。あとは中小企業団体中央会を通して、設立に向けて手順通りにやっていくだけのように思えた。足らないところを少しだけお手伝いできれば、うまく軌道に乗っていきそうだ。

 もう一つは、海外で水産物の調達をやっている友人からの要請で、名古屋の食品チェーンのA会長を訪ね、フィリピン、ミャンマー、インドネシア等から水産物を日本に入れる仕事についてお願いに行った。会長のグループ企業で水産物の品質チェックと製品化に取り組んでもらって、その実績を含めて購買生協や地域スーパー等への売り込み戦略を立てていくという大まかな方向性を確認。こちらも何とか話が前に進みそうな感触を得ることができた。

 来年度は、まちづくり研究所を軸に、介護人材の確保と養成に取り組むNCS事業協同組合、農業・林業・漁業という人の暮らしを支える基盤産業の保護・育成を本気で考えておかないと、胃袋を外国に依存してばかりでは日本の未来は切り開けないということで、第一次産業の保護・育成をテーマに六次産業化を含む取り組みを具体化していきたいと考えている。そんな試みの一つとして、東南アジアからの水産物の輸入と、養殖を含めた水産資源の保護育成の事業に着手したというところだ。

2017年11月15日水曜日

横綱の暴行事件

 大相撲横綱の日馬富士が、貴乃花部屋の貴ノ岩に暴行を加えていた事件が、マスコミを賑わせてます。相撲界では稽古と称した虐めや暴力事件が後を絶ちません。

 21Cに入ってからの暴力事件を拾い上げてみました。
◆2006年7月場所 大嶽部屋の露鵬が九重部屋の千代大海との一戦後、土俵の決着を土俵外に持ち出し口論となり、風呂場のガラスを割り、厳重注意を受けた後、カメラマンに暴行を加え、3日間の出場停止処分となりました。
◆2007年6月 新弟子として時津風部屋に入門した当時17歳の時太山が稽古時間中に心肺停止状態となり、搬送先の犬山中央病院で約1時間後に死亡が確認される事件が起こりました。時太山が人間関係や稽古の厳しさから脱走、それに腹を立てた親方がビール瓶で殴打し、「可愛がってやれ」と指示。集団暴行により時太山が死亡しています。時津風親方は部屋持ち親方としては史上初の解雇処分を受けました。
◆2007年6月 武蔵川部屋の山分親方が、ちゃんこ番の元力士の男性が新弟子を虐めているのを正そうとビールケースの上で蹲踞をさせてダンベルを持たせたり、ぶつかり稽古をさせて「当たりが弱い」と箒の柄の部分で両腕を繰り返し殴り2週間の怪我をさせ、書類送検されました。
◆2008年1月 陸奥部屋の十両豊桜が序の口力士の頭を調理器具のお玉で繰り返し殴打、8針(7cm)縫う怪我を負わせ、書類送検されました。
◆2008年5月 間垣親方が朝稽古で「やってはいけないことをやった」ことを理由に竹刀で太腿や顔、手の甲を叩き1週間の怪我を負わせ、相撲協会から減俸処分を受けています。
◆2010年1月 横綱朝青龍が場所中に深夜のスナックで泥酔。一般男性を殴り怪我を負わせ、横綱審議委員から横綱としては初めて引退勧告を受けました。相撲協会からの事情聴取後、突然引退を表明し新聞号外が出るなど話題を集めました。
◆2015年7月 宮城野部屋の熊ヶ谷親方が仕事上のミスを理由にマネージャーに対して、金属バットで尻を殴り、腕などをすりこ木や金づちで叩くなど暴行を加え、怪我を負わせ書類送検、相撲協会を解雇されました。
◆2017年10月 横綱日馬富士が、同じモンゴル出身の貴ノ岩に「兄弟子に対するあいさつが足りない」と説教中、貴ノ岩の携帯が鳴り操作しようとした貴ノ岩に腹を立ててビール瓶で殴打、さらに素手で何十回と殴り続けた・・・という事件が起こりました。

 暴力事件以外にも野球賭博に大麻事件、暴力団との関係等々いろんなことがありました。その都度、反省・謝罪会見が行われ、調査委員会が設置されたり改善の努力が行われ、改善される事が期待されてきましたが、ここへきて横綱日馬富士のビール瓶殴打事件が起こりました。
 相撲協会には自浄作用が働かないのか?という疑問がわいてきます。私は、相撲界の成り立ちがそうさせている側面が否めないと考えています。一つには、早い子は、中学校卒業で相撲部屋に入り、住み込みで稽古、稽古の相撲漬けの生活おくることになり、社会人としての知恵や知識を学びながら人間性を育んでいくという成長機会が損なわれていることがあげられるのではないでしょうか。
 そして、もう一つが、横綱を頂点とした厳然たるヒエラルキーの存在です。勝負の世界である以上、強い者の位が上になるのは仕方ないとしても、その相撲という勝負の世界の序列が、人格を含めた人間の序列になってしまっているのではないかと思うのです。例えば、関取(十両以上)になると付き人がつき、荷物を運んだり、廻しのつけ外し、テーピング、風呂で体を洗う、洗濯、ちゃんこ番と身の回りのこと全てを片付けてくれます。従順に我が儘を聞いてくれる付き人が、横綱ともなれば一人、二人ではなく、10人くらいつくわけです。そこで、自分はえらい、付き人は何でも自分の言うとおりになる、言うことを聞かないのはおかしい、力づくで言うことを聞かせても良い・・・といった勘違いが起こるのではないかと思うんです。
 こうして強くなって(横綱を目指して)、上にあがっていくことに絶対的な価値があるという価値観が醸成されることで、そのためには手段を択ばないといった考え方が生まれ、そこに稽古という名の虐めや、上の者の暴君のような振る舞いを是認する風土が生まれているのではないかと思います。
 大相撲は日本の国技であり、歴史も古いスポーツです。昔からの伝統を大切にしながらも、科学的な稽古と民主的な部屋の管理運営、人間的な成長を保障するための社会教育への取り組みなどが求められているのではないでしょうかね。そういう努力なしには、相撲界の体質は変えられないような気がします。

2017年10月5日木曜日

事務所探し

 まちづくり研究所を立ち上げて、家賃を払うのも大変だからと自宅を事務所にしたのだけれど、自宅というのは善し悪しだね。通勤時間がゼロ、家賃無し、と固定経費がかからないのは良いのだけれど、仕事とプライベートの境がなくなって、私のようにおおらかな性格だと、仕事の緊張感までなくしてしまう。お客さんに来てもらうにしても、家は私だけの物ではないので、かみさんのプライベートに対する配慮が必要だ。実際に、基本的には家にきてもらったことはない。

 ということで、現在、事務所探しを始めたところだ。探しはじめて色んなことに気がつくんだけれど、最近は、敷金なし、礼金なし、なんてところもあって、ワンルームだと家賃2万円台、初期費用10万円以下という格安物件があったりして、いや~驚いた。
 おまけに、インターネット無料、駐車場付き、事務所使用可とくればとりあえず借りておこうかなという気になるね。

 僕は、あまり悩まないほうなので、さっさと契約してしまおうかという気分なんだけど、かみさんは色々とこだわりがあるようで、僕の事務所なのだけれど、「物件を見てから決める」と申しております。僕は費用だけは気になるけど、あとは何とでもなると思うので、とりあえず、かみさんが気に入った物件を借りることになりますね。

 そこを拠点に、どんな成果を作り出せるか、今から楽しみで仕方ないのだ~。

2017年10月2日月曜日

スマートフォンに換えた

 これまで長くPHSを使ってきた。それにタブレット端末(Wi-Fi)で十分だったんだけど、来年3月で機種変更ができなくなるとY!mobileから連絡が来て、さてどうしようかと考えた。11月で契約が満了するので、機種変更するならそのタイミングでと思っていたのだけれど、その次がないということが明らかになったわけで、この際、最後の機種変更をしてサービスが無くなるまで使いづるけるか、新しい世代の携帯電話・スマホに交換するかとここ暫く頭を悩ませてきたのだ。

 かみさんのスマホが少し前から調子が悪くて、今日、ドコモから私の契約しているY!mobileに乗り換えることにしてスマホの契約に行ったのだけれど、契約満了まで待たなくても違約金が発生しないこと、同時にスマホを契約したら1万円のキャッシュバックがあるキャンペーンが今日から始まったことなどの話を聞いて、踏ん切りがついた。で、スマホに機種変更してきましたよ。

 タブレットを使っていたのでそんなに違和感はないのだけれど、使い勝手はだいぶ違う。慣れるまでしばらく時間がかかりそうだけど、子供のころに新しいおもちゃを買ってもらって嬉しくてずっとそのおもちゃで遊んでいたころの、あのワクワクした感じを味わっている。

 仕事の関係で、今までの仕事ではあまり縁のなかった海外に行くこともこれから先時々ありそうで、そんな時にPHSでは使いようがなかったけど、これからは海外でも使えるようになるし、無料通話アプリもいろいろあるので、海外からも無料で電話ができるということになればこんな便利なことはない。

 LINEは何だかコマーシャル等なくていい機能がたくさんあって閉口していたら、全世界ではWhatsapp(ワッツアップ)というアプリケーションが最も使われているのだということを知った。日本ではあまりメジャーではないが、Facebookを提供しているメーカーが買収して傘下に収めたらしく、これから日本でも流行るかもしれないのだ。シンプルにメールと電話ができるということでこれをメインに使っていこうと思っている。

 いろいろな機能を触って試して、アプリをインストールしたり、驚いたり、感心したり、そんな時間が何ともいえず楽しいね。

2017年9月20日水曜日

まちづくり研究所

NPOすばる『まちづくり研究所』、これが私の今後の活動の拠点である。私の目指すところは、「一人ひとりが、自分の人生を、自分らしく全うできること」であり、そして、それが可能となる地域をつくることであり、ひいては国づくりにまでつながっていくものだ。

まずは、地域がどうなっているのか明らかにし、地域に住む人の暮らしの課題を明確にすることが求められる。そして、その地域課題をどう克服していくのか、解決の道筋を政策提言しつつ、不足する社会資源を地域の人たちとともに作っていくことが私の活動になる。

もちろんその中のいくつかの課題は、NPOとして事業化することも検討している。具体的には、空き家対策を兼ねて低家賃の住宅を形にしたいと思うし、地域に点在するごみ屋敷の整理整頓とその家主のフォローを考えていきたい。そこには遺品整理も含まれるかな。遺品整理って、たんに残った不用品を片付けることじゃなくて、お亡くなりになった方の生きたあかしや文化を次の世代に引き継ぐこと、文化の継承だと思うんだよね。そんな気持ちを持ちながらやっていきたい。

『我が事、丸ごとの地域づくり』と厚生労働省が言い始めている。国が言うと、「安上がりの互助組織作り」だなんて反発が聞こえてきそうだけれど、悪いことばかりじゃない。

人は、一人では生きていけないわけで、地域と関わりながら生きている。自給自足で、衣食住をすべて自分で作り出しているという人がいれば別だけれど、多くの人は、食材をスーパーや魚屋、肉屋などで買い、服をシマムラやユニクロで買って、アパートを借りたり自分の家を大工さんにメンテナンスしてもらったりして生きている。信用を保証してもらうために住民登録したり印鑑登録して、必要に応じて住民票や印鑑証明などを活用して契約したりしている。あまり意識していないかもしれないが、役所を含め社会の様々な組織や人との関係性の中で生きているのだ。

つまり一人ひとりの問題・課題は、同時に地域社会の抱える問題・課題でもあるのだ。だから、『我が事、丸ごとの地域づくり』という厚労省の提案は至極当たり前のことを言っているだけのことなのだ。

国は国民を団結させないために常に分断してきた。マスコミをうまく使って、例えば、「富士見産婦人科事件」をセンセーショナルに取り上げたり、「病院が高齢者のサロン化」しているといい、「検査漬け」・「薬漬け」医療と批判したりして、医療は悪いものというイメージを国民に植え付けながら診療報酬切り下げを断行して見せた。
3K赤字(米、国鉄、健保)と喧伝し、国の財政を困難にする悪者のように描きながら、生産者米価を切り下げるなど日本の農業を破壊し続け、結果として食料自給率は先進資本主義国で最低の40%未満にまで落ち込み、国鉄は民営化され、健康保険本人の負担割合はゼロから3割負担へと大幅に負担が強化された。
新自由主義で競争をあおり、「負け組」から「勝ち組」を目指すことを国民に迫り、国民一人ひとりが分断されてしまった。地域にはもともと助け合う文化があったのに、それを新自由主義で破壊し、介護の世界でみればサービス提供事業所と利用者の契約に矮小化してしまった。制度の持続可能性云々ですでに全国一律の保険制度の体をなしていない制度になってしまった。
ここまできてやっと気づいたんだね。昔の村落共同体の助け合い組織の素晴らしさに。そしてその共同体的な助け合い組織こそが一番財源がかからない仕組みだってことに。しかし、いったん壊したものを再生するのにはすごいエネルギーが必要で、それぞれの自治体でいろんな努力が始まったところだけど、効果を出すには暫く時間がかかりそうだ。

日本には協同組合があり、新自由主義に翻弄されることなく、「分断」ではなく「団結」や「連帯」が大切だということを事業と運動で示して見せた。その経験を大切にしながら、地域共同体の再生をめざすこと。それが私の仕事になる。

2017年8月3日木曜日

退職

7月末で大学卒業以来身を置いてきた協同組合の仕事に切りをつけた。7月31日まで働いたので、有給休暇の消化どころではなかったが、振り返ってみるとずっとドタバタの毎日だった。じっくり仕事する余裕が欲しいというようなことを考える間もなく、問題が湧いてきてモグラ叩きよろしくその問題への対応が求められる。そして気がついてみれば自分のやりたい「仕事」ができなくなっている。

8月からは、100%仕事を自分でコントロールすることになる。有給休暇もとれなかったので、今週だけゆっくりさせてもらって、来週からは新しい仕事に向けて本格的に動き出す。先輩のご好意で東京に活動拠点ができたので、週明けに東京に行き社団法人を設立し、有志があつまって新しい仕事を起していく。同時に、介護を支える人づくりに取組む事業協同組合の活動に参加する予定で、その具体化に向けた打ち合わせに参加し、今後の動き方を確認する必要がある。ついでに、しばらく帰ることができなかった群馬の実家に行ってこようかな。

2017年5月18日木曜日

59歳、誕生日の決意

 5月11日に59歳を迎えた。60歳定年なので、本来ならば後1年残っているのだけれど、今年の6月の総会を区切りに現職を退職することにした。辞める理由はいくつかあるけれど、一番の理由は法人の事業方針と私のやりたいこととの間に小さくないズレが生じていることにある。
 私は、大学を卒業後一貫して協同組合及びその関連する事業に身を置いてきた。その経験の中から、協同組合は『事業体』であると同時に『運動体』であると考えてきた。運動体というと学生運動の延長みたいだけれど、解りやすく言えば事業を営みながら、協同組合の組合員が住んでいるこの町を、安心して暮らし続けることのできる町へと造りかえていくという使命を持った社会的組織だということである。
 私は、「事業」と「運動」のバランスを大事にしてきたし、そんなバランスのとれた協同組合こそが未来の歴史を書くのだと信じてきた。
 3年余前、20年ぶりに古巣の協同組合に戻り、事業の責任者の一翼を任されてきたが、協同組合らしさを感じることができず、大変驚いた。かつてレイドロー報告を読んだときにこんなことが書いてあったと記憶している。
 運動論しか持たない協同組合はすぐにでも倒産してしまうだろう。一般企業の手法をとりいれて事業を継続しようとする協同組合は、運動論しか持たない協同組合よりも長生きするかもしれないが、やがて組合員からの信頼を失い倒産していくことになるだろう。そして、協同組合の二面性を理解し事業を通じて社会的使命に応えようとする協同組合だけが生き残るに違いないと…
 今、私が所属している協同組合は、まさに2番目に出てくる資本主義的な管理手法によって事業を継続的に発展させることが最重要課題であるかのように振る舞っている。国際規格のISO9001の認証を取得し、その維持のために大きな費用と携わる多くの職員の少なくない労働時間を費やしている。ガバナンスが云々され、企業コンプライアンスの遵守が叫ばれ、マーケテリング理論に基づく事業計画の作成が要求される。協同組合の使命が語られることもあるが、その使命を果たすためにどう頑張ったかということが評価されるわけでもなく、事業活動の結果としてつまるところ黒字が出せる事業かどうかということだけが評価の対象となっているように見える。かつてこうした傾向を『経営主義』(経営を最優先する考え方)と呼んで批判していたはずが、いつの間にやら無批判に経営活動を優先する考え方を受け入れているのだ。
 もちろん、自由経済の中で事業を営んでいる以上、赤字を続けていたのでは事業を継続することができないということは言うまでもない。かつて「良い医療を提供し続けることが大事で、その結果赤字となるのはやむを得ない」と考えていた時期もあったが、さすがに今はそういうわけにはいかないということは解っている。しかし、黒字かどうかのみで事業活動を評価するのは間違っている。
 『経営主義』が蔓延する中で、現場でこんな声が聞こえてくる。「事務長はそう言いますが、そんなことしたら赤字になりますよ。それで良いんですか?」と。そして実際に「そんなことしたら赤字に」なることを理由にして、サービスの質を向上させていくことに対してサボタージュが起こっているのだ。私にとってそれは黙認できない事態なのだが、業務監査で監事から赤字を計上していることを批判され、職責者を集めた会議の場で「経営破綻事業所」などとレッテルを貼られることがあるため、現場の責任者からすると事務長の言うことを聞いていたら「痛い目にあう」ということになってしまうわけだ。
 これでは事業の質を高めながら、社会的な使命を果たしていくことなどできるわけもなく、私は心の底で葛藤し続けることになる。

 定年を前にして、何で今更、協同組合のそもそも論で悩まなければならないのだろうかと疑問を感じはじめ、そんなことに時間を費やすことなく、さっさとやるべきことをやる組織を自分で作るべきではないかという思いを抱くようになったのだ。というようなことで、6月末で今の仕事にけりを付け、新しい事業に向かっていくことにしたのだが、さてその事業が上手くいくのかどうか、もちろん上手くいかせる自信はあるが、実のところ不安もあって、時にはこの決断が正しいのかと弱気になることも・・・。でも、心を奮い立たせて、精一杯やってみようと考えている59歳の誕生日なのだ!!

2017年4月29日土曜日

介護保険法により介護から疎外される

 介護事業に携わって3年が過ぎ、4年目に突入した。介護の仕事を通じて感じたことがある。それは、介護保険法ができる前、困難を抱えた患者さんのために、みんなで力を合わせていろんなことをやってきたなぁという実感とともに、介護保険ができて、何にもやらなくなったなぁという矛盾した気持ちがわいてくるってこと。
 大学を卒業して名古屋の協同組合が経営する病院に就職したとき、困った人がいたら本当にいろんなことをやってきた。1970年代、名古屋市が革新自治体だった遺産が残っており、福祉事務所や保健所も随分現場に協力的だったと記憶している(もちろん、諸先輩の粘り強い闘いがあったことは大前提ですよ)。
 それがどうだ。介護保険ができて20年が経ち、現場際で仕事をしていて聞こえてくるのは、「それは介護保険ではできないんですよ。」、「認められていないんですよ。」といった、「やらない」「できない」言い訳ばかりじゃないか。具体的にはこんな感じ・・・

Aさん「庭の草とりが大変なんで、部屋の掃除はいいから、庭の草取りをたのめんじゃろうか。」
ヘルパー「介護保険では、部屋の掃除はできるんだけど、庭の掃除はできないきまりなんですよ。」

Aさんの娘さん「お父さんの晩御飯の準備を頼んでいるんだけど、一緒にお母さんの分まで作ってもらえないでしょうか。」
ケアマネ「ヘルパーさんはあくまでお母さんのために調理するので、お父さんの分は作れないんですよ。」

Aさんの妻「今度の診察の日が父の月命日なんで、診察の帰りに墓参りに連れて行ってほしいんだけど頼めませんか?」
ケアマネ「一般的に墓参は介護保険の給付外になるんですよ。足元が不安定なら福祉用具を借りる手配等はできますが、どうしましょうねぇ。」

Aさんの妻「夫のお友達が訪ねてくるんですけど、お酒好きの方なので、ビールと日本酒を用意しておきたいんですが、食材の買い物ついでに買ってきてくれませんか?」
ケアマネ「お酒などのし好品の買い物はできない決まりなんですよ。」

とまあこんなやりとりを聞かされることが良くあります。もちろん、デイサービスの利用やショートステイなど問題なくケアプランに組み込まれていくんですけど、「(介護保険では)それはできません。」などと聞くと、介護保険制度により介護から疎外されている現実が目に余って仕方ありません。しかも、「それは利用者のニーズではなく、我が儘ですよ。」などといわれると、「体の不自由を抱え、日々の暮らしそのものが大奮闘の連続なのだから、あなたがいう『我が儘』だって何とかしてあげたら良いんじゃないの。」と反発したくなりますが、「法令違反で業務停止になったら、それこそ地域の皆さんにご迷惑をおかけすることになるんだから、制度は制度、法令順守は事業の大前提ですよ。」などといわれると反論もおぼつかないわけですよ。

介護が必要な時に、すぐに利用できるわけでもなく、初めてなら要介護認定を受けて、介護度が決まらないと介護保険サービスは使えませんし、65歳未満の年齢では特定の疾患以外では要介護認定を受けられませんし、介護度に応じて区分支給限度額基準があって、一人ひとりの状態にかかわらず、介護度によって受け取ることのできるサービスの総量が決められていて、その限度額を超えたら全額自費になってしまうし、そうした制限だらけの介護保険制度が憲法違反に思えて仕方ないんですよね。


とにかく、介護保険法によって介護から疎外される人が生まれているこの現実を何とかしないといけないと強く思っている今日この頃なんです。

2017年1月16日月曜日

虹の家リニューアル

瀬戸内海を臨む玉野市は、坂の町でもあります。写真の真ん中辺りに、23日にリニューアル・オープンするデイサービス虹の家がみえます。

2017年1月7日土曜日

抱負

新しい年を迎えた。大学を卒業して以来、ずっと医療生協畑で仕事をしてきたが、何だか医療生協の限界が見えてしまって、ここでは自分のやりたいことができないという思いが強くなった。

1980年のレイドロー報告は「今日、協同組合人の間に、理念や思想を避け、その代わりに『事業を優先する』という強い傾向が存在する。しかし、これは間違った態度である。」と書いた。今、協同組合は理念や思想を掲げてはいるが、その理念は絵に書いた餅にすぎず、国際標準という名の亡霊によって利益を生み出すことを優先する経営主義にとらわれた運営に陥っているようにみえる。

例えば「安心して住み続けられるまちづくり」に取組むという方針を掲げているが、具体的に、ホームレスの人が住むところを求めて協同組合の扉をノックしてきたときに、私たちは扉を開けることができるのだろうかと自問してみればよい。「最後のよりどころ」になると言いながら、ホームレスの人のために扉を開け、中に招き入れることはできないのが実態だ。「一人は万人のために、万人は一人のために」は遠い目標で、目の前の困難を抱えた人には適用されない。

同時に、レイドロー報告はこうも言っている。「まったく企業的であり、社会的目的をもたない協同組合は、他の協同組合よりも長く存続するかも知れないが、徐々に弱体化し、長期的には崩壊するであろう。一方、社会的使命には大きな力点をおくが、健全な事業慣行を軽視する協同組合はおそらくはすぐに解体するだろう」と。

かつて社会的使命に力点をおいて、現代資本主義の中で真っ当な医療を行って黒字が出るはずがない。赤字でも事業体が存続できればそれで良いといった乱暴な事業運営を行っていた時期があった。バブルが崩壊し、事業経営に国際標準という評価基準が持ち込まれ、ガバナンスや企業コンプライアンスといったカタカナが事業報告書に目立つようになって、今度は協同組合の企業化が進んだ。

協同組合は、もう一度進むべき道を見定める作業を行わなければならない時期に来ているのだ。経営主義に陥ることなく、しかも、事業体としての継続性はしっかり担保したうえで、協同組合に求められている未来の創造主としての役割を果たすことに自覚的に取組める協同組合にならなけらばならない。

私には課題が見えているが、舵を握らせてもらっているわけではなく、どちらかといえば舵から遠い場所におかれており、そのことが私の協同組合の中での無力感につながっている。ならば協同組合の職員という立場を離れて、別の立ち位置で、やらなければならないこと、やってみたいことにチャレンジしてみようというのが私の今年の決意である。

2016年12月4日日曜日

空気を読めない

 空気を読めない人・・KuukiのKとYomenaiのYでKYと言ったりしますが、そんな人が多いと思うんですよ。何でだろうといろいろと考えたんですが、2014年の文化庁の「国語に関する世論調査」(16歳以上の男女3,000人を対象にアンケートを実施)によると、「1か月に3冊以上本を読む」と応えた人は17.9%、「読書量は減っている」と考えている人が65.1%にのぼるという。しかも、「1冊も読まない」人が47.5%に達するということです。
 私は、こうした事態とKYな人の増加には因果関係があると思っているのですね。

 本を読むことで例えば主人公の体験を我が身に起こったことのように経験することができます。もちろん、そこには我が身に起こったらどうなるかということを想像できる力が必要ですが、本を読むことでその想像力が鍛えられ、自分の体験のように具体的に思い描くことができるようになります。そうした経験が、相手の気持ちを想像できることを可能にし、「その場の空気が読めるようになる」ことにつながると思うんです。

 ところが冒頭に書いたように、本を読まない人が半数もいるわけで、これでは想像力の欠如がおこり、相手の気持ちを慮って対話したり対応したりできなくなるのが当たり前だと思うのですね。
 しかも、この本を読まない傾向は、若い人に限ったことではなく、全ての年代で起こっているということです。
 加えて、老若男女を問わずスマートフォンを持ち、ラインやメールやSNSで簡単につながるくせに、ちょっとしたことで簡単に関係が断たれていく…そんな様子を見ていて思うのは、デジタルな世界の言葉の使い方がおかしいんじゃないかということです。
 独特の言葉が使われていて私なんかは何を言っているのかわからないこともありますが、言葉が非常にストレートですね。含みのある言葉は使われず、「良いか、悪いか」、「好きか、嫌いか」といった二者択一的な言葉が交わされている。
 小説を読むときには行間を読む・・文章には書かれていない筆者の真意を汲み取る、なんてことができるとより面白く小説を読めるようになるわけですが、デジタルな世界ではそんなことは全く考慮に入らないわけですね。だから、些細なことで簡単に関係を断ってしまおうということになるわけですが、今のデジタルな関係では、例えば、友達の登録を削除してしまえば、いとも簡単に関係を絶ってしまうことができてしまうわけです。
 こうした薄っぺらい人間関係が、仮想空間の中で構築されていき、それが実世界の人間関係に照射され、実世界の人間関係をも脆弱なものにしていく。そんな風に私の眼には映りますね。その希薄な人間関係により、今にも壊れそうに微妙なバランスで成り立っているのが今の日本社会じゃないのかなぁ。そして政権与党はそれを上手く利用して、国民を支配する仕組みを作り出している。いつまでたっても野党はそれに敵わない・・残念だけどね。