2017年1月7日土曜日

抱負

新しい年を迎えた。大学を卒業して以来、ずっと医療生協畑で仕事をしてきたが、何だか医療生協の限界が見えてしまって、ここでは自分のやりたいことができないという思いが強くなった。

1980年のレイドロー報告は「今日、協同組合人の間に、理念や思想を避け、その代わりに『事業を優先する』という強い傾向が存在する。しかし、これは間違った態度である。」と書いた。今、協同組合は理念や思想を掲げてはいるが、その理念は絵に書いた餅にすぎず、国際標準という名の亡霊によって利益を生み出すことを優先する経営主義にとらわれた運営に陥っているようにみえる。

例えば「安心して住み続けられるまちづくり」に取組むという方針を掲げているが、具体的に、ホームレスの人が住むところを求めて協同組合の扉をノックしてきたときに、私たちは扉を開けることができるのだろうかと自問してみればよい。「最後のよりどころ」になると言いながら、ホームレスの人のために扉を開け、中に招き入れることはできないのが実態だ。「一人は万人のために、万人は一人のために」は遠い目標で、目の前の困難を抱えた人には適用されない。

同時に、レイドロー報告はこうも言っている。「まったく企業的であり、社会的目的をもたない協同組合は、他の協同組合よりも長く存続するかも知れないが、徐々に弱体化し、長期的には崩壊するであろう。一方、社会的使命には大きな力点をおくが、健全な事業慣行を軽視する協同組合はおそらくはすぐに解体するだろう」と。

かつて社会的使命に力点をおいて、現代資本主義の中で真っ当な医療を行って黒字が出るはずがない。赤字でも事業体が存続できればそれで良いといった乱暴な事業運営を行っていた時期があった。バブルが崩壊し、事業経営に国際標準という評価基準が持ち込まれ、ガバナンスや企業コンプライアンスといったカタカナが事業報告書に目立つようになって、今度は協同組合の企業化が進んだ。

協同組合は、もう一度進むべき道を見定める作業を行わなければならない時期に来ているのだ。経営主義に陥ることなく、しかも、事業体としての継続性はしっかり担保したうえで、協同組合に求められている未来の創造主としての役割を果たすことに自覚的に取組める協同組合にならなけらばならない。

私には課題が見えているが、舵を握らせてもらっているわけではなく、どちらかといえば舵から遠い場所におかれており、そのことが私の協同組合の中での無力感につながっている。ならば協同組合の職員という立場を離れて、別の立ち位置で、やらなければならないこと、やってみたいことにチャレンジしてみようというのが私の今年の決意である。

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