2018年2月6日火曜日

日清戦争前史

 19世紀半ばから東アジアは、西洋列強の脅威にさらされました。列強各国の利害関心、また日本、清国、朝鮮の地理と経済条件、政治体制、社会構造などにより、三国への影響は異なるものとなりました。

 大国の清では、広州一港に貿易を限っていました。しかし、アヘン戦争(1839 - 42年)とアロー戦争(1857 - 60年)の結果、多額の賠償金を支払った上に、領土の割譲、11港の開港などを認め、不平等条約を締結せざるを得ませんでした。このため、1860年代から漢人官僚曽国藩、李鴻章等による近代化の試みとして洋務運動が展開され、自国の伝統的な文化と制度を土台にしながら軍事を中心に西洋技術の導入を進めることになりました(中体西用)。したがって、近代化の動きが日本と大きく異なります。たとえば外交は、近隣との宗藩関係(冊封体制)をそのままにし、この関係にない国と条約を結んでいきました。
 日清両国は、1871年(明治4年、同治10年)に日清修好条規を調印したものの、琉球王国の帰属問題が未解決であり、国境が画定していませんでした(1895年、日清戦争の講和条約で国境画定)。

 日本では、アメリカ艦隊の来航(幕末の砲艦外交)を契機に、江戸幕府が開国へと外交政策を転換し、清国同様、西洋列強と不平等条約を締結せざるを得ませんでした。その後、新政府が誕生すると、幕藩体制に代わり、西洋式の近代国家が志向されます。新政府は、内政で中央集権や文明開化や富国強兵などを推進するとともに、外交で条約改正、隣国との国境確定、清・朝鮮との関係再構築(国際法に則った近代的外交関係の樹立)など諸課題に取り組みました。結果的に、日本の近代外交は清の冊封体制と摩擦を起こし、日清戦争でその体制は完全に崩壊することとなります。

 朝鮮では、摂政の大院君も進めた衛正斥邪運動が高まる中、1866年(同治5年)にフランス人宣教師9名などが処刑され(丙寅教獄)、その報復として江華島に侵攻したフランス極東艦隊(軍艦7隻、約1,300人)との交戦にも勝利し、仏を撤退させました(丙寅洋擾)。さらに同年、通商を求めてきたアメリカ武装商船との間で事件が起こりました(ジェネラル・シャーマン号事件)。翌1867年(同治5年)、アメリカ艦隊5隻が朝鮮に派遣され、同事件の損害賠償と条約締結とを要求したものの、朝鮮側の抵抗にあって同艦隊は本国に引き上げざるをえませんでした(辛未洋擾)。大院君は、仏米の両艦隊を退けたことで自信を深め、旧来の外交政策である鎖国と攘夷を続けることになりました。
 しかし、先に見たように江華島事件がおこり、日朝修好条規の締結により鎖国政策が終わりを告げることになります。
 旧来、朝鮮の対外的な安全保障政策は、宗主国の清一辺倒であした。しかし、1882年(明治15年、光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力が伴うようになると、朝鮮国内で清との関係を見直す動きが出てきました。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとしてクーデターを起こし失敗しました(甲申政変)。

 清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかありました。一つは、日本が進めた朝鮮の中立化(多国間で朝鮮の中立を管理)、二つには、一国による朝鮮の単独保護、三つには、複数国による朝鮮の共同保護等がありました。
 さらに、日清両国の軍事力に蹂躙された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出されました(ドイツの漢城駐在副領事ブドラーの朝鮮中立化案、後に露朝密約事件の当事者になるメレンドルフのロシアによる単独保護)。つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清の二国間関係から、ロシアを含めた三国間関係に移行していました。

 そうした動きに反発したのがロシアとグレート・ゲーム※を繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスでした。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日・清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していました。そして、1885年(光緒11年)、アフガニスタンでの紛争をきっかけに、ロシア艦隊による永興湾(元山沖)一帯の占領の機先を制するため、4月15日に巨文島を占領しました。しかし、イギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫してしまうことになりました。ロシアはウラジオストク基地保護のために朝鮮半島制圧を意図したのです。
※グレート・ゲーム(英: The Great Game)とは、中央アジアの覇権を巡るイギリス帝国とロシア帝国の敵対関係・戦略的抗争を指す、中央アジアをめぐる情報戦をチェスになぞらえてつけられた名称。イギリス東インド会社の一員であったアーサー・コノリーが1840年にヘンリー・ローリンソン少佐にあてた手紙の中ではじめて命名したといわれる。

 しかし、朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、具体化には至りませんでした。1891年(明治24年)の露仏同盟や、フランス資本の資金援助によるシベリア鉄道建設着工など、ロシアとフランスが接近する中で、イギリスは日本が親英政策を採ると判断し、対日外交を展開します。日清戦争前夜の1894年(明治27年)7月16日、日英通商航海条約に調印し、朝鮮半島への日本の影響力強化を後押しすることになりました。
 しかし、結局のところ朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態でした。

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