2018年1月23日火曜日

壬午軍乱(じんごぐんらん)

 李王朝下の朝鮮では、国王みずからが売官(官職を売る行為)をおこない、支配階級たる両班による農民への苛斂誅求な税の取り立て、不平等条約の特権に守られた日清両国商人による収奪などにより民衆生活が疲弊していた。王宮内部では、清国派、ロシア派、日本派などにわかれ、外国勢力と結びついた権力抗争が繰り広げられていた。特に、宮中では政治の実権をめぐって、国王高宗の実父である興宣大院君と高宗の妃である閔妃が激しく対立していた。

 当時朝鮮の国論は、清国の冊封国(清国を宗主国とする従属国)の維持に重きを置く事大主義をとる守旧派(事大党)と、朝鮮の近代化を目指す開化派に分かれていた。開化派はさらに独立近代国家をめざす急進開化派(独立党)と、清朝宗属関係と列国との国際関係の二者併存のもとで自身の近代化を進めようとする親清開化派に分かれていた。
 一方清国は、日本や欧米諸国が朝鮮を清の属国とは認めないことを通達した事実を受け、最後の朝貢国となりつつあった朝鮮を近代国際法下での「属国」として扱うべく行動した。もともと宗属関係は藩属国の内政外交に干渉しない原則であったが、清国はこの原則を放棄して干渉強化に乗り出したのである。これは、近代的な支配隷属関係にもとづく権力の再構成であり、宗属関係の変質を意味していた。
 こうした清国の動きに対して、富国強兵・殖産興業をスローガンに近代化を進める日本にとっては、工業製品の販路として、また増え続ける国内人口を養う食糧供給基地として朝鮮半島を重視し、そのためには朝鮮が清国から政治的・経済的に独立していることが国益にかなっていた。

 日朝修好条規の締結により開国に踏み切った朝鮮政府は、開国5年目の1881年5月、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の中心となって、日本と同様の近代的な軍隊の創設にふみきった。近代化に一日の長がある日本から、軍事顧問として堀本禮造陸軍工兵少尉を招き、その指導の下、旧軍とは別に新式装備をそなえる新編成の「別技軍」を組織して西洋式の訓練をおこなったり、青年を日本へ留学させたりと開化政策を推進した。
 別技軍には最新式の新式小銃などが配られる等さまざまな点で優遇され、旧軍には旧式の火縄銃が配られていた。また、当時は米で支払われていた俸給も1年も配給されず、差別的な待遇に旧軍兵士に不満が広がっていた。そこへ1882年夏は大旱魃にみまわれ、穀物は不足し政府の財政も枯渇した。ようやく13か月ぶりに俸給米が配られることになったが、倉庫係が嵩増しして残りを着服しようと、砂や糠、腐敗米を混ぜた俸給米を配給した。
 これに腹を立てた旧軍兵士が倉庫係を襲ってこれに暴行を加え、倉庫に監禁し、庁舎に投石した。この知らせを受けた担当官僚(宣恵庁堂上)であった閔謙鎬は、首謀の兵士たちを捕縛して投獄し、いずれ死刑に処することを決定した。この決定を不服とした軍兵たちが救命運動に立ち上がると、運動はしだいに過激化し、政権に不満をいだく貧民や浮浪者をも巻き込んでの大暴動へと発展し、1882年7月23日(朝鮮暦6月9日)、壬午軍乱が勃発した。
 これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃し、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭の興宣大院君の教唆煽動によるものであった。反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、途中からは別技軍も暴動に加わった。
 兵士らは閔謙鎬邸を襲撃したのち、投獄中の兵士と衛正斥邪派の人びとを解放し、首都の治安維持に責任を負う京畿観察使の陣営と日本公使館を襲撃した。このとき、別技軍の軍事教官であった堀本少尉が殺害されている。
 翌7月24日、軍兵は下層民を加えて勢力を増し、官庁、閔妃一族の邸宅などを襲撃し、前領議政(総理大臣)の李最応も邸宅で殺害された。さらに暴徒は王宮(昌徳宮)にも乱入し、軍乱のきっかけをつくった閔謙鎬、前宣恵庁堂上の金輔鉉、閔台鎬、閔昌植ら閔氏系の高級官僚数名を惨殺した。このとき、閔妃は夫の高宗を置き去りにして王宮から脱出し、その日のうちに忠州方面へ逃亡した。王宮に難を逃れていた閔妃の甥で別技軍の教練所長だった閔泳翊は重傷を負った。
 軍兵たちは23日夕刻までに王宮を占拠し、国王からの要請という形式を踏んで大院君を王宮に迎え、かれを再び政権の座につけた。

 朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館の護衛を強く要請した。しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕はなく、暴徒の襲撃を受けた日本公使館はやむを得ず自ら応戦することになった。
 蜂起当日はなんとか自衛でしのいだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって避難を余儀なくされた。朝鮮政府が護衛の兵を差し向けてくる気配はなく、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の花房義質は公使館の放棄を決断。避難先を京畿観察使営と定め、花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した。
 ようやく京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内はすでに暴徒によって占領されており、花房らは漢城脱出を決意。漢江を渡って仁川府に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃され、一行のうち5名が殺害された。
 襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら済物浦から小舟(漁船)で脱出した。その後、海上を漂流しているところをイギリスの測量船フライングフィッシュ号に保護され、7月29日、長崎へと帰還することができた。

 こうして9年ぶりに政権の座についた興宣大院君は、復古的な政策を一挙に推進した(第2次大院君政権)。軍組織を以前の体制に戻し、別技軍を廃止した。そして、閔氏とその係累を政権から追放する一方、閔氏政権によって流罪に処せられていた衛正斥邪派の人びとを赦免し、また監獄にあった者の身柄を解放して、みずからの腹心を要職に就けた。

 壬午軍乱は、こうして開花派からの復古というかたちで終息するが、第二次大院君政権は清国の介入により失敗、大院君が清国に拉致され、ふたたび閔妃が権力の座についた。日本はこの軍乱の後始末として同年8月済物浦(さいもっぽ)条約を締結。朝鮮から賠償金、駐兵権を獲得、開港場の権益も拡大させた。
 一方、清国もこれを機に同年10月、清韓(しんかん)商民水陸貿易章程を強要、朝鮮に対する内政干渉と経済的進出を強化していった。こうして朝鮮をめぐる日清の対立はいっそう激化することになった。

2018年1月20日土曜日

樺太・千島交換条約

 明治政府の対外戦略を見ると、南では琉球王国の併合、西では日朝修好条規の締結、そして、北ではロシアとの国境の確定と、対外膨張路線をとっていることが良く分かる。

 日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島と得撫島との間に定められたが、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地とされた。
 1856年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになる。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、「北緯48度を国境とすること」、あるいは、「得撫島から温禰古丹島(オネコタン島)までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすること」を建言した。徳川幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、慶応2年(1867年)、石川利政と小出秀実をペテルブルクに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。
 しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太はこれまで通りとされた(日露間樺太島仮規則)。これにより幕府とロシアは競うように樺太に大量の移民を送り込みはじめたので、現地は日本人、ロシア人、アイヌ人の三者間の摩擦が増えて不穏な情勢となった。

 日露間樺太島仮規則では、樺太に国境を定めることができなかったため、明治に入っても、日露両国の紛争が頻発した。こうした事態に対して、日本政府内は、二つの意見で割れていた。
 一つは、樺太全島の領有乃至樺太島を南北に区分し、両国民の住み分けを求める副島種臣外務卿の意見。
 もう一つは、「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」とする樺太放棄論を掲げる黒田清隆開拓次官の意見があった。
 その後、副島外務卿が征韓論で下野することなどにより、黒田らの樺太放棄論が明治政府内部で優勢となった。

 明治7年(1874年)3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。
 榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov/Стремухов)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められ、その結果、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約が締結された。

 樺太・千島交換条約の正文はフランス語である。ロシア語および日本語は正文ではなく、また条約において公式に翻訳されたもの(公文)でもないため、条約としての効力は有していない。日本語訳文には、第二款のクリル群島の部分に食い違いがある。
(フランス語正文)
En échange de la cession à la Russie des droits sur l'île de Sakhaline, énoncée dans l'Article premier, Sa Majesté l'Empereur de toutes les Russies, pour Elle et Ses héritiers, cède à Sa Majesté l'Empereur du Japon le groupe des Îles dites Kouriles qu'Elle possède actuellement avec tous les droits de souveraineté découlant de cette possession, en sorte que désormais ledit groupe des Kouriles appartiendra à l'Empire du Japon. Ce groupe comprend les dix-huit îles ci-dessous nommées : 1) Choumchou
・・・途中省略・・・
18) Ouroup, en sorte que la frontière entre les Empires de Russie et du Japon dans ces parages passera par le détroit qui se trouve entre le cap Lopatka de la péninsule de Kamtchatka et l' île de Choumchou.

(第1条に述べられたる、サハリン島に対する諸権利のロシアへの譲歩の代わりに、全ロシア皇帝は後継者に至るまで、現在自ら所有するところのクリル諸島のグループを、その所有に由来する凡ての主権とともに日本皇帝に対してゆずる。従って、上述のクリル諸島のグループは日本国に属する。このグループは以下に挙げる18島をふくむ。:1)シュムシュ
…途中省略…
18)ウルプ 従ってこの海域におけるロシア国と日本国の境界はカムチャツカ半島ロパトカ岬とシュムシュ島との間の海峡を通過することになる。
出典:ウィキペディア『樺太・千島交換条約』
(日本語訳文)
全魯西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島
…途中省略…
第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及ヒ君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲リ而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加地方「ラパツカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス

 フランス語正文ではクリル諸島のグループと書かれているので、いわゆる択捉島、国後島、積丹島、歯舞群島を含む全千島列島を指しているが、日本語訳では、1855年に確定した国境である択捉水道より北の18島が日本の領土となったと書かれている。この齟齬が現在の北方領土交渉による主張の隔たりを生むことにつながっている。

 日本政府の見解は、択捉島、国後島、積丹島、歯舞群島は日本の固有の領土であり、日本がサンフランシスコ条約で放棄した千島列島には含まないという解釈にたっているが、ロシアは全千島列島を放棄したと主張し実効支配している。
 ちなみに、日本共産党は、樺太・千島交換条約は平和裏に締結された領土交渉であり、この条約を根拠に第二次世界大戦で放棄させられた全千島列島の返還を要求している。

2018年1月19日金曜日

日朝修好条規

 江華島事件の発生を、長崎に寄港した雲揚からの報告で知った明治政府は、一時帰国していた釜山理事官の森山茂氏を、長崎で補修中だった軍艦春日に乗せて釜山へと送り、釜山草梁において在留日本人の保護に当らせることにしました。しかし、釜山では平穏が保たれており、朝鮮側に開戦の意図があるようには見えず、内政で日本国内が混乱している時期でもあったため、日本政府はこの事件に関してはしばらく静観することになりました。
 森山理事官の日誌によれば、朝鮮国内では日本船を攻撃したという噂が流れ、釜山草梁で日本人に接する朝鮮側の人々は大いに不安に駆られていた様子であったこと、朝鮮政府は事件後、釜山草梁における日本人への対応を一転して丁重なものに変える等、日本側を慰撫するような動きも見られ始めたことなどが記されています。

 事件後の1876年(明治9年)1月、黒田清隆氏を特命全権大使とする交渉団が江華府へと派遣されると、朝鮮政府は、開化派の司訳院堂上官の呉慶錫氏を、交渉に先立つ応接の使者に派遣するなど日本側に多大な配慮を示す対応を見せました。黒田大使等は派遣前の内諭によって攻撃を受けた場合の対応等も予め指示されていましたが、開戦回避という一点において日朝両政府の意図は合致していたといえます。

 「韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記」によると、日朝両国の江華島事件に対する主張は以下のようなものでした。
【日本側】
・日本政府は事前に日本国旗を渡して誤認を避けるように忠告していた。にもかかわらず事件が発生したのは朝鮮側の責任である。
・貴国は我が国の船が黄色い旗を掲げていたというが、そうした報告は受けていない。
・雲揚が日章旗(事件発生時は一旒、被攻撃後に三旒まで増やす)を揚げていたことは間違い無い。
・そもそも条約交渉が滞っていたこと(書契問題)は、事件と同程度に重大な問題である。
・事件については朝鮮側の明確な謝罪を求める。
【朝鮮側】
・江華島は京城接近の地(首都に近い)故に、守衛を厳しくしていた。
・日本の国旗の見本は既に我政府へ差出されていたけれども、両国交際のことが決着していないので、それが決着してから全国へ交付するつもりだった。
・其船は黄色の旗を立てており、日本とは全く別個の船と認め、防守の為発砲した。
・朝鮮は日清両国以外の船(西洋船)が来航する場合は武力を持って打ち払うことも辞さいという政策を採っていた。(鎖国政策)
・事件は日本船を西洋船だと誤認したことによって発生した不幸な事故であることは明白であり、守兵に罪はない。

 最終的に朝鮮側は、日本の言い分を受け入れざるを得ず、日朝修好条規(江華条約)の締結と同時に江華島事件と条約交渉の停滞(書契問題)に対する謝罪文を手交する形で事件は決着しました。
 アメリカの黒船の威力を前に日米修好通商条約を結ばざるを得なかった日本が、今度は、砲艦の力によって朝鮮との間に日朝修好条規を結び、朝鮮を力によって開国させたということですね。このころからアメリカ追随と見るわけにはいかないと思いますが、アメリカの手法を真似たのは間違いなのではないでしょうか。

 日朝修好条規の主な内容は次の通り、日本に有利な内容になっています。
1.朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。
2.日朝両国が相互にその首都に公使を駐在させる。
3.日本公館が存在する釜山以外に2港を選び開港する。
  ※1880年に元山、1883年に仁川が開港した。
4.朝鮮周辺の地形が複雑なので、日本の航海者が自由に沿岸を測量してその位置や深度を明らかにして地図を編纂して両国客船の安全な航海を可能とする。
5.通商については、各々の人民に任せ、自由貿易を行うこと。
6.日本人が開港にて罪を犯した場合は日本の官吏が裁判を行う。また朝鮮人が罪を犯した場合は朝鮮官吏が裁判を行うこと。

【日朝修好条規締結の影響】
1.条約の締結によって李氏朝鮮は開国し、それまでの慣習法を基にした伝統的な日朝関係が、国際法を基にした近代的なものへと置き換えられました。
2.日朝間の条約締結をうけて、欧米諸国はなおも鎖国政策を継続しようとする朝鮮に対してより一層開国を迫るようになりました。
3.砲艦外交や米価騰貴、領事裁判権などいくつもの要因が重複して、朝鮮側の日本への悪感情を蓄積させていきました。それはやがて壬午事変の暴発を招くことになりました。
4.条約締結以後、清朝が建国以来の冊封国朝鮮を維持しようと、朝鮮に積極的に関与するようになりました。清国は、朝鮮を冊封体制から、近代国際法的な属国へと位置づけし直そうとし始めます。同じく、日本も朝鮮を影響下に置こうと画策し始めていたため、日本と清朝の対立が深まり、日清戦争の遠因となりました。

2018年1月17日水曜日

江華島事件

 1875年 江華島事件が起こります。その経過は次のようなものでした。

 6月に日朝間の国際関係樹立のための交渉支援を終えた後、雲揚は釜山を出港し、対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港します。9月に入って改めて清国牛荘(遼寧省営口市)までの航路研究を命じられて出港。9月19日には月尾島(下の地図では月尾公園辺り)に投錨しています。

 9月20日月尾島から北上し雲廉島の南辺りに再投錨し、カッターを出して江華島をめざします。報告書によると、この日、御国旗は掲げていませんでした。黄山島を経て江華島の第三砲台(草芝鎮)に至り、帰路、「測量及び諸事検捜、且つ当国官吏へ面会し万事尋問するため」第三砲台に上陸しようとしたところ、第三砲台営門前で突然朝鮮軍から大小砲にて砲撃され、持参の小銃にて応戦しましたが、益無しと判断しいったん本艦に戻ります。「此儘捨置くときは御国辱に相成、且つ軍艦の職務に欠く」ことになるという理由から、翌21日、雲揚は、壇上に御国旗を掲げて江華島第三砲台に近づき、砲撃を開始しました。朝鮮側も応戦しましたが、その砲弾は雲揚に届きませんでした。第三砲台周辺の海は、遠浅で潮流も激しくかつ暗礁があって上陸に適さなかったため、砲撃によりある程度第三砲台を破壊した後、第二砲台(黄山島)に陸戦隊を上陸させ朝鮮軍の陣地を焼き払いました。

 22日は陸戦隊22名を永宗島(第一砲台)に上陸させ朝鮮側の35名余を殺害、大砲36門と小銃・槍・楽器などを戦利品として雲揚に持ち帰りました。日本側は負傷者2名、1名は帰艦後死亡しました。翌23日も上陸して前日運びきれなかった捕獲品を積み込み、28日に長崎に帰還しました。

 どこの船籍かわからないカッターが砲台の周りを行ったり来たりすれば、上陸の可能性ありと判断し、防衛のために威嚇射撃するという事態は想定できたはずで、挑発し、砲撃させて、こちらから攻撃する口実としたのではないかと私は観ています。いずれにしてもこの江華島事件で朝鮮側は第一から第三砲台までを失いました。
コネスト韓国地図に第一、第二、第三砲台の位置を書き込んでいます。
おりしも朝鮮国内では、鎖国攘夷勢力と変革を求める開国勢力が争っていたわけですが、この事件をきっかけに朝鮮はゆっくりと開国への道を歩み始めることになりました。


2018年1月15日月曜日

日韓関係の歴史 ~ 端緒

 日韓関係史をひもとくと、明治維新直後にまで遡ることができます。

 1868年新政府が成立した日本は、12月には新政権樹立の通告と条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹立を求める国書を持つ使者を、かねてから日本と国交のあった李氏朝鮮政府に送りました。しかし、興宣大院君のもとで攘夷を掲げる朝鮮政府は、西洋化を進める明治政府を訝しみ、冊封体制下では中華王朝の皇帝にのみ許される称号である「皇」、中華皇帝の詔勅を意味する「勅」の文字が入っていることなどを理由に国書の受け取りを拒否します。その後、何度国書を送っても、朝鮮側はその都度受け取りを拒否し続けました。

 こうした状況の中で朝鮮直交をもとめる明治政府は朝鮮外交の権限を外務省に一元化し、対馬宗氏を除外して皇使を派遣すべきだとの意見が強まります。その前提として調査目的に佐田白茅氏らが派遣されますが、彼は帰国ののち1870年(明治3年)「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべきだ」という征韓の建白書を提出しました。

 局面の打開のため、外務省は対馬宗氏を通して朝鮮外交の一本化を進める宗氏派遣計画(1871年(明治4年)2月)や、柳原前光氏の清国派遣(1871年(明治4年)8月。政府等対論)など複数の手立てを講じ、同年9月13日には清国と日清修好条規が締結されることになりました。 しかし、1871年(明治4年)4月に、アメリカ艦隊が江華島の砲台を占領、朝鮮側がこれを奪還する事態が生じ(辛未洋擾)、朝鮮が攘夷の意思を強めていた時期でもあり交渉は進展しませんでした。1871年(明治4年)の末からは岩倉使節団が西欧に派遣されることとなり、国政・外交に関する重要な案件は1873年(明治6年)秋まで事実上の棚上げとなりました。

 1872年(明治5年)5月には、外務省官吏・相良正樹氏は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた対馬藩の朝鮮駐在事務所(草梁倭館)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めました(倭館欄出)。同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を、大日本公館と改名し外務省に直接管理させることにしました。これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だったこと、対馬藩は日本と朝鮮の間の交渉窓口の立場にあったからです。この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には大日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行いました。

 1873年(明治6年)5月31日付の広津報告を受け、朝鮮への使節派遣が閣議に付されました。この提案は、明治初年以来の日朝交渉が朝鮮側の拒絶により行き詰まっていること、倭館の館門に掲示された伝令書が日本を侮辱していることを強調し、出師を前提に「陸軍若干軍艦幾隻」派遣すべく協議を求めるものでした(征韓論)。

 1875年(明治8年)、釜山に於いて、東莱府と森山茂理事官との間で初めての政府間交渉が持たれます。しかし宴饗の儀における日本大使の大礼服着用(服制問題)と、同大使が宴饗大庁門を通過することについて、東莱府が承認しないなどのため紛糾、さらに朝鮮政府の中央では、大院君の支持者が交渉中止を求めたために議論が紛糾し、東莱府も確実な回答を日本側に伝えることが不可能となっていました。

 膠着した協議を有利に進展させるため、日本側交渉担当者(理事官である森山氏と副官である廣津氏)から測量や航路研究を名目とし、朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が提出されますが、三条実美太政大臣は外務卿寺島宗則氏が対朝鮮交渉の指令案をより譲歩的なものに修正していたこともあってこれを批判。しかし、川村純義海軍大輔の建議もあって、「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦が朝鮮沿岸の測量という名目で極秘裏(征韓論者の反撃を惧れて)に朝鮮に派遣されることになりました。

 5月25日に雲揚、6月12日に第二丁卯が釜山草梁へと入港。すると、朝鮮側は突然の軍艦の来航に懸念を表明しましたが、日本側は「交渉の停滞を懸念して自分(森山)を督促するために派遣されたのだ。」と説明します。さらに、軍艦への乗船視察を求めた朝鮮側官吏の歓迎式典や、事前通達をした上での訓練名目で、空砲による砲撃や射撃演習などの威圧行為を行いました。これらの行動は朝鮮側官吏や釜山周辺の住民を大いに恐れさせたものの交渉の進展に寄与することは無く、日朝交渉は森山氏らの帰国という形で一旦打ち切られることになりました。

 交渉支援を終えた2隻は、名目上の任務である朝鮮沿岸の測量へと出発しました。雲揚は6月20日に釜山草梁を出港、同月29日までに朝鮮東岸部を測量し、一旦釜山に帰港しました。

 1854年、日米和親条約の締結に続き、1868年明治政府の成立で近代国家への歩みを始めた日本政府が、隣国朝鮮へ近代的国際関係の樹立を求めたが、鎖国中の朝鮮からは良い返事が来なかったのです。すると征韓論が出てきて武力を背景にした朝鮮併合計画につながっていくという経過をたどることになるのですが、そのきっかけとなる事件が起こります。

2018年1月13日土曜日

台湾出兵

 突然、台湾出兵ときて何のことやらと思うかもしれないので、ちょっと理由を書いておく。安倍首相が戦後レジームからの脱却を主張し改憲しようとしている中で、戦後レジームとは何だったのかを明確にしておく必要を感じており、色々考えていたら、日本の対外膨張路線を見ておく必要があるかなと思い、調べていくとこの台湾事件にまで遡ったというわけだ。台湾事件から始まり二度の世界大戦につながっていく日本の戦争史を振り返る作業をやっておこうということだ。そこから戦後レジームとは何かを描き出し、安倍総理のいうところの戦後レジームからの脱却という主張が正しいのかどうか考えていこうという壮大な計画の、これが第一歩となる。
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 1871年、当時の琉球王国に属する宮古島の貢納船が台湾に漂着し、54名が台湾人の牡丹社という生蕃(せいばん)に殺害されるという事件が起こりました。生蕃とは清朝の支配を受けていない先住民の少数民族です。

 当時、琉球王国は日本と清の両国に朝貢する「両属」の国として、日本と清の間にその帰属をめぐって対立が生じ始めていました。明治政府は、琉球王国の漁民が殺害された事件を琉球王国を日本が領有するために利用することを思いつきます。

 さっそく外務卿副島種臣が清政府に打診したところ、清朝の総理各国事務衙門(総理衙門)は、琉球は中国の属国であるからその島民は日本人ではないとし、台湾の生蕃については清朝の「化外の民」(統治範囲外の人々)であるから、関係がないと答えます。その回答を受けて明治政府は、「琉球人は日本国民であり、生蕃にたいして清朝が処罰できないなら、自ら討伐する。」として、1874年5月、陸軍中将西郷従道の指揮の下、3,600名の台湾遠征軍を派遣しました。遠征軍は牡丹社の頭領親子を殺害しますが、マラリアで兵士500人が死ぬという事態となりました。

 清朝は、日清修好条規(1871年)に定める領土の相互不可侵の項目に反するとして抗議しますが、当時は洋務運動の最中で、近代装備の海軍を有していなかったため、日本との開戦に踏み切ることはできませんでした。

 イギリス及び諸外国は、日本と清の戦争はアジアを不安定にし、貿易活動に障害となると判断し、同年10月イギリス公使ウェードの仲介によって両国の妥協が成立します。その中で清国は日本の出兵を「義挙」と認め、賞金を50万両支払うことを約します。和解書の文面に「台湾の生蕃かつて日本国臣民らに対して妄りに害を加え」という一文があったので、明治政府は清朝が琉球を日本の一部であると認めたとの解釈から琉球王国の併合を進めることになりました。

 1874年の台湾出兵は近代日本の最初の海外進出であり、琉球王国の併合を勝ち取った日本政府は、以後71年間、アジアに向かって軍事侵攻を続けることになりますが、台湾出兵は対外膨張路線の第一歩だったのです。

忘れえぬ思いで

 今日1月12日、Kさんの告別式だった。無宗教の式で、坊さんがお経を読んだり、神父さんが神のお言葉を呟いたりといった儀式はなく、故人の思い出を語り、別れを偲んだのだった。
 私も思い出を語ってくれとKさんの長男から頼まれていたので、昨日から何を語ろうかと考えていたら、仕事だけでなく、登山にキャップ、海外旅行まで、けっこう一緒に過ごす時間があったことに今さらながらに驚いた。

 私が、岡山県民になったのは1990年3月末で、4月1日から岡山医療生協に出勤したのだが、配属先の組織部にいたのがKさんだった。Kさんは異動になる予定でKさんから仕事の引継ぎを受けた。最初に念を押されたのが、「医療生協の組合員さんに参加してもらう行事で一番大事なことは、弁当が足らない事態は何があっても避けなければならないということだ。」であった。そして「コツは、参加者を集約したら1個弁当が余るように手配することだ。」と続けた。爾来、私はこの教えを守り、組織部在任中は言うに及ばず医療生協にいる間、行事で弁当を食べられない人をつくらずに済んだ。

 たぶん1992年ころ、職場の仲間で石鎚山登山を計画したことがある。瓶ヶ森の山小屋に泊まり、翌日土小屋に移動してそこから山頂を目指した。大人が7、8人、子供が5人くらいいたと記憶しているが、頂上手前の試しの鎖74mの岩場を男の子4人(みんなよそ様の子ですよ)を連れて、私一人で登ったのだった。一番小さいのは小学校2年生くらいだったと思うが、親たちはサッサとう回路を上り始めたものだから仕方ない。当時は若かったから、「落ちてきたら俺が受け止める」くらいに考えたのだが、今なら、あり得ない。それでも何とか無事に子供たちと一緒に山頂に立つことができて、さすがにあの時の安ど感、達成感は今も忘れない。
 この山行ではさらにおまけがあって、帰り道、一番小さい男の子が、外科外来のN看護師と一緒に先頭を歩いて下山し、土小屋コースに降りるためには途中一度だけ右折しなければならないのだけれど、そこを直進してしまうというトラブルが起こった。雨が降っていたこともあり、先頭を歩いている二人が直進してしまったことに最後尾の私は全く気づかず、土小屋の駐車場まで下りて初めてその子のお母さんが「息子がいない」と言ってきて初めて分かったのだった。迷うとすれば土小屋コースへ曲がるところをまっすぐロープウェイコースを下ってしまったこと以外は考えられない。私は、迷うことなく荷物を軽くして、雨の中走って分岐地点を目指したのだった。幸い、途中で気が付いて引き返し、下山してくる二人と会うことができたので良かったが、これが登山路を外れでもしていたらと思うと、ぞっとしたのだった。

 それから2008年くらいだったと思うが、ホーチミンからアンコールワットを目指したメコン川を遡上する旅も忘れられない。53歳で奥さんをなくし、傷心のまま仕事を辞めてベトナムに渡ったSさんが現地で25ほど年の離れた嫁さんをもらい、娘が生まれ、娘はなちゃんの小学校入学を祝うということで、私は一升瓶を担ぎ、岸下さんは娘さんへのプレゼントを持ってホーチミンへ行った。そこで、Sさんから「若いうちにメコン川を遡上する旅をやった方が良い。年取ったらできないから。」といわれてその気になった。ホーチミンの旅行会社で朝早くツアー客を募っているのに参加して、メコン川の支流を縫うようにプノンペンに入り、そこから飛行機でシェムリアップに飛ぶというツアーに参加した(ツアーはプノンペンまで)。イベントで使う折り畳み椅子が4つ並ぶほどの幅しかない小さな小舟で、メコン川の本流を避け支流を縫うように遡上し、時々、フェリーで本流を超え小舟を乗り継ぎ国境を越える。
 二人ともたいした英語力もないくせに、不安も感じないで旅に出られたのはKさんと二人だったからである事に間違いない。こっちは岡山弁訛の強い英語(ほぼ岡山弁)、相手はクメール訛の強い英語、結局、言葉だけでは上手く通じなくて、身振り手振り、場合によっては絵を描いたり、とりあえずお互いに相手が何を言っているのかを理解しようという努力の上に、意外に通じるもんなんですよね。あのときの経験で、あらためて世界が一つになったら良いなと強く思うようになったものです。

 Kさんを語るときにもう一つ忘れられないのが、嫁さんのこと。普段は、気が利かんとか、細かいことうるさいんじゃぁとか、文句言っていたくせに、奥さんの難しい病気が見つかったとき、病名を告げられた瞬間「何ともいえん喪失感を感じた」といい、端から見ていても解るくらい落ち込んでいた。これまで以上に二人であちこち出かけたりしていたようですが、奥さんがご本人が思っているよりも遥かに長く元気で生き続けたんですね。すると今度は、嬉しそうに「何であのとき喪失感を感じたのか解らん」「あのとき喪失していた方が良かった」とKさん独特のブラックユーモアで喜びを表現していた。
 昨年秋、本当にお亡くなりになったときには、奥さんの病気をうけとめられており、あまり大きく落ち込む事はなかったように見えたが、息子の話に寄ると、家ではしょんぼり落ち込んむこともあったようだ。しかし1か月程すると元気になってきて、「大根炊いたんだけどアクなのかようわからんけど美味くない。どうしたら良い?」と聞いてきた事があった。何でも奥さん頼みだったのに、自分で飯を作る気になったことが、自分一人で生きていく決意表明のように聴こえて嬉しかった。「大根は米のとぎ汁で下茹でして、それから味をふくめていくんですよ。」とこつを教え、「美味く炊けたら食べてもらう」と約束してくれた。残念ながらその約束は反故になってしまったが…

 私は、思うところあって定年を待たずに岡山医療生協を退職し、NPO法人を立ち上げ活動をはじめましたが、Kさんもあと1年で65歳となり再雇用も終わる。そしたら、一緒に「俺たちが暮らしやすい町をつくり、俺たちが住める施設を作ろう!」などという話をしていたのですが、それが叶わぬ事になってしまった。Kさんはいつも真摯に仕事に向き合い、ただ、実務は一寸苦手だったが、(具体的なタスクという意味の)やり残した仕事もあるが、ご本人にとっては、悔いのない職業人としての人生を全うできたのではないか。

 「Kさん、あなたのやり残した事は、私が実現していきますので、安心してどこかで見守っていてください。もっと太く長く生きたかったかもしれませんが悔いのない人生を生ききったKさんですから、安らかにおやすみください。」と弔辞を締めくくった。

2018年1月11日木曜日

スポーツマンシップ

 カヌー競技のドーピングの話題を聞いて、かなり驚きました。日本のスポーツ界は、この問題ではこれまでかなりクリーンにやってきてましたからね。しかも、自分の筋力をつけるとか持久力を上げるとかではなくて、ライバル選手に禁止薬物を飲ませて、ドーピングにより失格させることを狙うというのは、かなり卑劣なことです。
 ハンマー投げの室伏さんが、日本の選手には「危機感が足りない。」、食事の途中で席を立つ必要がある時には「誰かに見守ってもらい、戻ってから、何もなかったことを確認していた。」とおっしゃってましたが、スポーツ界の汚れた面を見せられたようでちょっと嫌でした。

 選手たちには、スポーツをすること自体を楽しみとし、公正なプレーを尊重し、相手の選手に対する尊敬や賞賛、同じスポーツを競技する仲間としての意識をもって取り組むという姿勢が求められます。また、様式化された礼節の発揮も、マナーという面から重視される傾向があり、選手同士が試合の前や後に挨拶を交わすのも、スポーツマンシップの延長で見られる風習です。

 オリンピックを含めてスポーツの政治利用みたいなことが話題になりますが、スポーツマンシップとは相容れないものであり、スポーツが日ごろ鍛えた技や力を純粋に競い合う場になって欲しいと思います。

2018年1月9日火曜日

アップル社タックスヘイブン

 下の表は、各国の法人税の実効税率である。アップル欧州本社はアイルランド南部のコークス市。ニューズウィークのジェニファー・ダガン氏によれば、アイルランドは、緊縮財政とホームレス危機に苦しみながら、昨年のGDP成長率は26%。(詳細は「アップルの税逃れ拠点、アイルランドの奇妙な二重生活」を参照のこと。)この奇妙な経済構造の問題はどこにあるのか・・・・・・

 「アップルは1980年代にいち早く進出し、雇用を創出し、他の多国籍企業を引き寄せた。今ではフェイスブックやグーグルもアイルランドに大きなオフィスを持ち、労働者の5人に1人は外国の多国籍企業で働いている。」という。ギリシャの前財務省ヤニス・バルファキス氏は「アップルやフェイスブックなどハイテクのアイルランドと『その他大勢』のアイルランドがある」と語ったそうだが、『その他大勢』は、職を求めて移住する若者たちと、それを見送る者たちだという。

 一方で緊縮財政とホームレス危機が進行中であるにもかかわらず、GDPの成長率は26%というこの奇妙な現象は、アップルのような企業が、アイルランドの12.5%という法人税率を最大限に生かすため、アイルランドを租税回避地に選んでいることによる。アップル社は、南北アメリカ以外の地域の売り上げの大部分をアイルランドに移転し、そこから生まれる利益は各国政府、アイルランド政府、米国政府の課税を逃れ無税となっていたことがアメリカ上院の常設調査委員会で明らかにされている。こうして得た膨大な利益の一部を研究開発費に充て、残りは海外に蓄積しているという。その額は昨年9月末時点で約28兆円に上るとみられている。

 アイルランド国内では「景気後退と緊縮財政のおかげで、公共サービスはどこも麻痺状態。医療は財源不足でなかなか医者には診てもらえず、病院のベッドも足りない。学校は経費削減のため、2つの学級を1つの教室に詰め込んで授業をしているところもある。」といった困難が広がっているにもかかわらず、アイルランドの人たちは耐えてきた。多国籍企業が低税率の恩恵を受け取って豊かさを謳歌する傍らで不満を口にする人はほとんどいなかったという。

 しんぶん赤旗によれば、アップルの税逃れは1.2兆円にのぼるという。また、欧州委員会は「アイルランド政府はアップルに130億ユーロ(約1.5兆円)を追徴課税すべきだ」との判断を示しているが、アイルランド政府はアップルに追徴しない方針だという。棚からぼた餅の税収を拒絶する理由は何か?私には理解できない。

順位 名称 実効税率(%) 国税(%) 地方税(%) 地域
1位   アメリカ 38.91 32.9 6.01 北米
2位   フランス 34.43 34.43 0 ヨーロッパ
3位   ベルギー 33.99 33.99 0 ヨーロッパ
4位   ドイツ 30.18 15.83 14.35 ヨーロッパ
5位  オーストラリア 30 30 0 オセアニア
5位   メキシコ 30 30 0 中南米
7位   日本 29.97 22.59 7.38 アジア
8位   ポルトガル 29.5 28 1.5 ヨーロッパ
9位   ギリシャ 29 29 0 ヨーロッパ
10位  ニュージーランド 28 28 0 オセアニア
11位   イタリア 27.81 23.91 3.9 ヨーロッパ
12位   ルクセンブルク 27.08 20.33 6.75 ヨーロッパ
13位   カナダ 26.7 15 11.7 北米
14位   オランダ 25 25 0 ヨーロッパ
14位   オーストリア 25 25 0 ヨーロッパ
14位   スペイン 25 25 0 ヨーロッパ
14位   チリ 25 25 0 中南米
18位   韓国 24.2 22 2.2 アジア
19位   イスラエル 24 24 0 中東
19位   ノルウェー 24 24 0 ヨーロッパ
21位   スウェーデン 22 22 0 ヨーロッパ
21位   デンマーク 22 22 0 ヨーロッパ
23位   スイス 21.15 6.7 14.45 ヨーロッパ
24位   スロバキア 21 21 0 ヨーロッパ
25位   アイスランド 20 20 0 ヨーロッパ
25位   エストニア 20 20 0 ヨーロッパ
25位   トルコ 20 20 0 中東
25位   フィンランド 20 20 0 ヨーロッパ
29位   イギリス 19 19 0 ヨーロッパ
29位   スロベニア 19 19 0 ヨーロッパ
29位   チェコ 19 19 0 ヨーロッパ
29位   ポーランド 19 19 0 ヨーロッパ
33位   ラトビア 15 15 0 ヨーロッパ
34位   アイルランド 12.5 12.5 0 ヨーロッパ
35位   ハンガリー 9 9 0 ヨーロッパ

2018年1月5日金曜日

事の顛末

 昨日、相撲協会の評議員会後、池坊議長は「貴乃花理事の解任が決定した。暴行問題に対して報告義務を怠り危機管理委員会の調査への協力を拒否した。公益法人の役員としては考えられない行為で忠実義務に反している」と述べて貴乃花親方の理事解任が全会一致で決議されたことを明らかにしました。相撲協会の理事が解任されるの初めてのことで、この処分を巡りSNS上では相撲協会へのバッシングが起こっています。いずれにしてもこれで今回の元横綱日馬富士関の暴行事件の関係者全員の処分が確定しました。

【関係者の処分の内容】
▶ 加害者である日馬富士関は、自ら引退を決意し、その後の警察の調査を経て、略式起訴され民事事件では最高額となる50万円の罰金を課せられました。後の理事会で「引退勧告」が妥当とされました。
▶ 事件の現場にいた横綱白鵬関は1か月半の減俸、同じく横綱鶴竜関は1か月の減俸処分が決まりました。また、照ノ富士関、石浦関に対しては、鏡山危機管理部長から注意がなされました。
▶ 日馬富士関の所属していた部屋の伊勢の浜親方は、理事会に辞任届を提出し受理されました。
▶ 相撲協会の八角理事長の処分は「国技たる大相撲の評価を著しく毀損するもの」「統率する立場にある以上、相応の責任がある」と理由付けされ、3か月の給与減額とされました。
▶ 貴乃花理事は「暴行問題に対して報告義務を怠り危機管理委員会の調査への協力を拒否した。公益法人の役員としては考えられない行為で忠実義務に反している」として理事解任が決定しました。

 これが相撲協会が責任をもって出した結論であり、ここには一つの正義が貫かれていると私は受け止めています。

 これらの処分が不当だとする意見を述べている人たちの多くが、貴乃花親方を被害者だとしています。しかし、それは違うでしょう。被害者は貴乃花部屋の貴ノ岩関です。貴乃花親方は貴ノ岩関の所属する部屋の親方です。暴行傷害事件の責任を取らせるわけですから、加害者、被害者、そして関係者の立場等は明確にしないと処分なんかできません。
 そして次に多いのが「相撲協会が事件を公にしないでもみ消そうとした」「もみ消しに協力しないから処分された」という類のご意見です。これは貴乃花親方が事件当初、協会に対して怪我は大したことはないと報告しながら警察に被害届を出した理由として、同趣旨の発言をしていたことに由来すると思われますが、警察に被害届が出され捜査が進めば、司直の手をくぐりぬけて事件をうやむやにすることなどできるはずもなく、現に、スポーツ新聞で大々的に報道され、その後、2か月に及びテレビを通じて全国に知れ渡ることになりました。相撲協会も貴乃花親方の報告がなかったとはいえ、同席していた力士から直接情報を集めるなどやれることはあったという意味で、後追いだという批判を免れることはできませんが、マスコミも注目する中で、相撲協会の危機管理委員会が真相を明らかにしようとしているわけですから、ここで貴乃花親方は協力するべきだったんです。あれだけ注目を集めたわけですから、今さらもみ消しなんてできる状況にはありませんでした。
 マスコミにも、相撲協会にも沈黙を続ける貴乃花親方を、孤軍奮闘する英雄と見る貴乃花親方ファンの気持ちがわからないこともありません。しかし、私には曲がりなりにも真相を究明しようとしている相撲協会に対して、協力もせず、親方しか知りえない真相や貴ノ岩関の状態等何も語らず、居留守を使い、果ては文書を携えた鏡山危機管理部長にドアも明けずにFAXで送っていただければ・・・というような対応をしていたのでは、明らかに対応を間違えていると感じられました。貴乃花親方の相撲協会に対する敵意がむき出しで、サングラスをつけ、長いマフラーを肩にかけ、無言で車に乗り込む貴乃花親方は、暴力組織のドンという風情を漂わせており心底怖いと感じました。また、貴乃花親方が貴ノ岩関が真相を語るのを避けている、あるいは貴ノ岩関に語られては困ることがあるから事情聴取を認めないのではないかという疑念を抱かせました。
 評議員会の池坊議長が、「相撲は礼に始まり、礼に終わる。貴乃花親方は礼を欠いていた。」と述べたことを取り上げ、「礼を欠いているというなら白鵬関の待ったはどうなんだ」という意見も提起されています。場所中の行司判定を不服とする土俵下での「待った」や千秋楽で表彰後の万歳三唱は礼を欠いているではないかということですが、これはすでに八角理事長から厳重注意を受け、横綱審議委員会からも厳しく批判されていることで何も処分がなかったかのような批判は正しくありません。私は、白鵬関の土俵下での「待った」は、スポーツとしての相撲、勝ちにこだわる相撲を追及する外国人力士と、桜花を愛でる日本人の精神世界(散り際の美、潔さ)を大切にする『相撲道』を目指す価値観の違いであって、外国人力士に相撲の門を開いた時から抱えていたことだと捉えています。
 さらに、モンゴル力士会が八百長の温床になっているという意見もでてきて、ガチンコ相撲を追求する貴乃花親方と、モンゴル力士会と一体となった相撲協会による八百長相撲の争いだという構図が提起されています。ここまで広げてしまうと、本当にそうなのかということも含めて、暴力事件というよりは相撲協会自身の抱える問題をどう解決するのかという話になってしまい、それは協会の大きな課題であることは間違いありませんが、今回の処分云々の話ではなくなっています。

 他にもありますが、代表されるのはこんなところでしょうか。私は組織をちゃんとしていくのは組織自身であると思っており、組織が出した結論は尊重するという立場です。今回の顛末を見ていて、相撲が日本の伝統的なスポーツであり全国の根強いファンに支えられている以上、国民の意見を聞き、相撲協会の改善につなげていけるような仕組みを整備することが必要だと強く感じました。

 最後にこれからの相撲協会の話をしましょう。
1.評議員7名というのは少なすぎます。池坊議長を除いて全員男性ですが、女性の評議員を増やすべきです。例えばこんな評議員会にしたらどうでしょう。理事会から3人、力士会から3人、学識経験者から3人、相撲の興行が行われる各地域からの代表6人、合計15人の評議員会でいかがですか?
2.罰則規程整備して、行為と処分の対応関係をわかりやすく整理したほうが良いと思いますが、いかがですか?例えば上位力士によるパワハラで、「通院が必要な怪我をさせた場合は2階級降格とする」みたいに決めておくというのはどうでしょう。また、「理事としての善管義務違反は理事降格としその後5年間は理事に立候補できないものとする。」のように理事の処分についても明文化したほうが良いですね。
3.本場所の取り組みについて、同部屋の対戦を組まないというルールは止めて、同部屋の取り組みも見られるようにしたらいかがでしょう。相撲ファンは観たいと思ってますよ。
4.力士と部屋あるいは相撲協会との関係を現代的な雇用関係にし、就業規則を作るなどして労働法規によって守られるようにしたらいいと思いますがいかがですか?
5.相撲ファンからの意見を取り入れて改善するための目安箱を設置したらどうですか?

 相撲って良いですね。

2018年を人生最高の年に

 年があらたまってもう4日が経った。今日まで正月休みということにしているのだが、溜まった新聞や年賀状を取り込まなければならないので、事務所をのぞいた。そういえば宝くじを買っていたのを思い出して、7億円当たったら何に使おうかと思いながらチェックしてみたけれど、30枚買って当ったのは300円×3枚で回収率1割という結果だった。買っても当たらないのだけれど、買わなければ100%当らないところだが、買えば7億円の夢を見られる。外れても4割ほどは公共事業に使われると思えば、社会貢献につながっているのも事実。まあ、それで良しとしよう。
 占いを信じるほど純粋ではないけれど、SNSで招待されたので軽い気持ちでやってみたら「2018年は人生最高の年になる」という結果で、大層驚いた。でも、良いメッセージとして受け止め、最高の年となるようちょっと頑張ってみようと決意したのでした。

 さて、2018年にはどんなことが待っているのだろう・・・・・・

 1月には、介護福祉士の国家試験が待っている。合格できるよう試験対策の勉強もまずまず予定通り進んでいるので、何とか合格できるように頑張りたい。世界に目を転じると、今月からロンドン市内のタクシーが、温暖化ガス排出ゼロ車種以外の新規登録ができなくなるんですね。日本も考えていかないとなぁ。

 2月~3月、平昌オリンピックで日本選手がどんな活躍を見せてくれるのか楽しみに待っている。女子スケート短距離陣には金メダルを期待したいし、スキーのジャンプや複合でも金メダルが期待できる。寝不足になりそうだけれど、今から楽しみだ。また、2月初めにはNCS事業協同組合が無事に外国人技能実習生の管理団体の認可が下りる予定で、今年は、本格的に外国人技能実習生の受け入れが待っている。

 3月に入るとすぐ、診療報酬・介護報酬の改定の内容が発表される。今年の改定で医療や介護がどうなっていくのか。これが気になるところだ。診療報酬のほうは、診療報酬本体部分が0.55%のプラス改定。薬価等については▲1.65%とされ、介護報酬は0.54%のプラス、障害福祉サービス等報酬については0.47%のプラス改定となる。細かなところを見ないと何とも言えないが、最近の傾向は、基本部分は上げずに、加算要件を満たすと加算が算定でき、加算が算定できれば収入も増えるという仕組みになっており、この加算をしっかりとれるかどうかが報酬増となるかどうかの分かれ道とされることが多い。具体的にどうなるか詳細を把握し、実績にあてはめ、プラスかマイナスかを評価してみないと何とも言えない。

 4月1日に、診療報酬・介護報酬の改定。また、5月投票で、日本福祉大学のN先輩の備前市議会議員選挙の戦いが本格化する。国内の動きでは、大阪市の市営地下鉄が民営化され、神戸空港の民営化も始まり関西3空港の一体運営に代わる。外国人技能実習生の受け入れ等でベトナムや中国、ミャンマー等東南アジア地域へ出ていくことが増えそうなので、関西3空港の一体運営は興味のあるところだ。

 5月、憲法記念日のころには、自民党改憲案を中心にして、具体的な改憲発議の内容について政権与党での検討が始まりそうだ。そして年内には国会発議をとりまとめ、2019年の早い時期に国民投票に持ち込もうというのが安倍首相が考えている日程ではないかな。とすると、夏場が憲法改悪を許すかどうかの闘いの山場となりそうだ。

 6月に、国民投票の投票年齢が18歳以上になる。若い彼らが憲法改正にどんな意見を持っているのか興味のあるところだ。彼らの投票行動が憲法改悪を許すかどうかにつながっていることは間違いないからね。そして、ロシアでFIFAワールドカップが開幕する。

 今年の前半を見ただけでも既に色んな予定が決まっている。こうした中で人生最高の年とするために、私は何をしよう。

1.外国人技能実習生の受け入れを軌道に乗せていく。
 ▶NCS事業協の組合員を増やす
  ・協同組合陣営との連携を具体化する。
  ・介護事業所の組織化を進める。
 ▶送りだし機関との契約・連携の強化
  ・ベトナム、中国、ミャンマー
2.日本の農林漁業を再構築するために何ができるか考える。
 ▶農業に取り組む若い人たちのネットワークをつくり、食料主権をすすめる。
  ・和食が世界遺産になり、見直される和の食材の生産・販売ネットワークの開発
  ・東南アジアからの産直運動を形にする。
3.暮らしの困った何でも相談所の活動を地域に認知してもらう。
 ▶民生委員さんとの連携を強化する。
 ▶社会資源を活用した広報活動を重視する。
4.地域情報誌発行を具体化する。
 ▶500部の読者を確保し、月2,000部の発行からスタートする。
5.医療・介護制度の改正に対応し地域資源の発掘・開発、ネットワークをつくる。
 ▶介護事業所のコンサルタント契約を目標数値を決めて取り組む
6.社会教育に取り組む。
 ▶地域での学習会の組織及び講師活動に取り組む(介護保険制度、まちづくり)。

 2018年の私の事業活動は、これらのことから着手していきたい。厳しい経済環境、憲法改悪との闘い、課題山積だけれど、この身は一つ。やれることはしれているけれど、志を同じくする仲間の輪を広げながら、仲間と一緒にこれらのテーマに挑戦する一年にしたいと考えている。