2018年1月23日火曜日

壬午軍乱(じんごぐんらん)

 李王朝下の朝鮮では、国王みずからが売官(官職を売る行為)をおこない、支配階級たる両班による農民への苛斂誅求な税の取り立て、不平等条約の特権に守られた日清両国商人による収奪などにより民衆生活が疲弊していた。王宮内部では、清国派、ロシア派、日本派などにわかれ、外国勢力と結びついた権力抗争が繰り広げられていた。特に、宮中では政治の実権をめぐって、国王高宗の実父である興宣大院君と高宗の妃である閔妃が激しく対立していた。

 当時朝鮮の国論は、清国の冊封国(清国を宗主国とする従属国)の維持に重きを置く事大主義をとる守旧派(事大党)と、朝鮮の近代化を目指す開化派に分かれていた。開化派はさらに独立近代国家をめざす急進開化派(独立党)と、清朝宗属関係と列国との国際関係の二者併存のもとで自身の近代化を進めようとする親清開化派に分かれていた。
 一方清国は、日本や欧米諸国が朝鮮を清の属国とは認めないことを通達した事実を受け、最後の朝貢国となりつつあった朝鮮を近代国際法下での「属国」として扱うべく行動した。もともと宗属関係は藩属国の内政外交に干渉しない原則であったが、清国はこの原則を放棄して干渉強化に乗り出したのである。これは、近代的な支配隷属関係にもとづく権力の再構成であり、宗属関係の変質を意味していた。
 こうした清国の動きに対して、富国強兵・殖産興業をスローガンに近代化を進める日本にとっては、工業製品の販路として、また増え続ける国内人口を養う食糧供給基地として朝鮮半島を重視し、そのためには朝鮮が清国から政治的・経済的に独立していることが国益にかなっていた。

 日朝修好条規の締結により開国に踏み切った朝鮮政府は、開国5年目の1881年5月、大幅な軍政改革に着手した。閔妃一族が開化派の中心となって、日本と同様の近代的な軍隊の創設にふみきった。近代化に一日の長がある日本から、軍事顧問として堀本禮造陸軍工兵少尉を招き、その指導の下、旧軍とは別に新式装備をそなえる新編成の「別技軍」を組織して西洋式の訓練をおこなったり、青年を日本へ留学させたりと開化政策を推進した。
 別技軍には最新式の新式小銃などが配られる等さまざまな点で優遇され、旧軍には旧式の火縄銃が配られていた。また、当時は米で支払われていた俸給も1年も配給されず、差別的な待遇に旧軍兵士に不満が広がっていた。そこへ1882年夏は大旱魃にみまわれ、穀物は不足し政府の財政も枯渇した。ようやく13か月ぶりに俸給米が配られることになったが、倉庫係が嵩増しして残りを着服しようと、砂や糠、腐敗米を混ぜた俸給米を配給した。
 これに腹を立てた旧軍兵士が倉庫係を襲ってこれに暴行を加え、倉庫に監禁し、庁舎に投石した。この知らせを受けた担当官僚(宣恵庁堂上)であった閔謙鎬は、首謀の兵士たちを捕縛して投獄し、いずれ死刑に処することを決定した。この決定を不服とした軍兵たちが救命運動に立ち上がると、運動はしだいに過激化し、政権に不満をいだく貧民や浮浪者をも巻き込んでの大暴動へと発展し、1882年7月23日(朝鮮暦6月9日)、壬午軍乱が勃発した。
 これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃し、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭の興宣大院君の教唆煽動によるものであった。反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、途中からは別技軍も暴動に加わった。
 兵士らは閔謙鎬邸を襲撃したのち、投獄中の兵士と衛正斥邪派の人びとを解放し、首都の治安維持に責任を負う京畿観察使の陣営と日本公使館を襲撃した。このとき、別技軍の軍事教官であった堀本少尉が殺害されている。
 翌7月24日、軍兵は下層民を加えて勢力を増し、官庁、閔妃一族の邸宅などを襲撃し、前領議政(総理大臣)の李最応も邸宅で殺害された。さらに暴徒は王宮(昌徳宮)にも乱入し、軍乱のきっかけをつくった閔謙鎬、前宣恵庁堂上の金輔鉉、閔台鎬、閔昌植ら閔氏系の高級官僚数名を惨殺した。このとき、閔妃は夫の高宗を置き去りにして王宮から脱出し、その日のうちに忠州方面へ逃亡した。王宮に難を逃れていた閔妃の甥で別技軍の教練所長だった閔泳翊は重傷を負った。
 軍兵たちは23日夕刻までに王宮を占拠し、国王からの要請という形式を踏んで大院君を王宮に迎え、かれを再び政権の座につけた。

 朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館の護衛を強く要請した。しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕はなく、暴徒の襲撃を受けた日本公使館はやむを得ず自ら応戦することになった。
 蜂起当日はなんとか自衛でしのいだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって避難を余儀なくされた。朝鮮政府が護衛の兵を差し向けてくる気配はなく、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の花房義質は公使館の放棄を決断。避難先を京畿観察使営と定め、花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した。
 ようやく京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内はすでに暴徒によって占領されており、花房らは漢城脱出を決意。漢江を渡って仁川府に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃され、一行のうち5名が殺害された。
 襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら済物浦から小舟(漁船)で脱出した。その後、海上を漂流しているところをイギリスの測量船フライングフィッシュ号に保護され、7月29日、長崎へと帰還することができた。

 こうして9年ぶりに政権の座についた興宣大院君は、復古的な政策を一挙に推進した(第2次大院君政権)。軍組織を以前の体制に戻し、別技軍を廃止した。そして、閔氏とその係累を政権から追放する一方、閔氏政権によって流罪に処せられていた衛正斥邪派の人びとを赦免し、また監獄にあった者の身柄を解放して、みずからの腹心を要職に就けた。

 壬午軍乱は、こうして開花派からの復古というかたちで終息するが、第二次大院君政権は清国の介入により失敗、大院君が清国に拉致され、ふたたび閔妃が権力の座についた。日本はこの軍乱の後始末として同年8月済物浦(さいもっぽ)条約を締結。朝鮮から賠償金、駐兵権を獲得、開港場の権益も拡大させた。
 一方、清国もこれを機に同年10月、清韓(しんかん)商民水陸貿易章程を強要、朝鮮に対する内政干渉と経済的進出を強化していった。こうして朝鮮をめぐる日清の対立はいっそう激化することになった。

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