日韓関係史をひもとくと、明治維新直後にまで遡ることができます。
1868年新政府が成立した日本は、12月には新政権樹立の通告と条約に基礎づけられた近代的な国際関係の樹立を求める国書を持つ使者を、かねてから日本と国交のあった李氏朝鮮政府に送りました。しかし、興宣大院君のもとで攘夷を掲げる朝鮮政府は、西洋化を進める明治政府を訝しみ、冊封体制下では中華王朝の皇帝にのみ許される称号である「皇」、中華皇帝の詔勅を意味する「勅」の文字が入っていることなどを理由に国書の受け取りを拒否します。その後、何度国書を送っても、朝鮮側はその都度受け取りを拒否し続けました。
こうした状況の中で朝鮮直交をもとめる明治政府は朝鮮外交の権限を外務省に一元化し、対馬宗氏を除外して皇使を派遣すべきだとの意見が強まります。その前提として調査目的に佐田白茅氏らが派遣されますが、彼は帰国ののち1870年(明治3年)「30大隊をもって朝鮮を攻撃すべきだ」という征韓の建白書を提出しました。
局面の打開のため、外務省は対馬宗氏を通して朝鮮外交の一本化を進める宗氏派遣計画(1871年(明治4年)2月)や、柳原前光氏の清国派遣(1871年(明治4年)8月。政府等対論)など複数の手立てを講じ、同年9月13日には清国と日清修好条規が締結されることになりました。 しかし、1871年(明治4年)4月に、アメリカ艦隊が江華島の砲台を占領、朝鮮側がこれを奪還する事態が生じ(辛未洋擾)、朝鮮が攘夷の意思を強めていた時期でもあり交渉は進展しませんでした。1871年(明治4年)の末からは岩倉使節団が西欧に派遣されることとなり、国政・外交に関する重要な案件は1873年(明治6年)秋まで事実上の棚上げとなりました。
1872年(明治5年)5月には、外務省官吏・相良正樹氏は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた対馬藩の朝鮮駐在事務所(草梁倭館)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めました(倭館欄出)。同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を、大日本公館と改名し外務省に直接管理させることにしました。これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だったこと、対馬藩は日本と朝鮮の間の交渉窓口の立場にあったからです。この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には大日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行いました。
1873年(明治6年)5月31日付の広津報告を受け、朝鮮への使節派遣が閣議に付されました。この提案は、明治初年以来の日朝交渉が朝鮮側の拒絶により行き詰まっていること、倭館の館門に掲示された伝令書が日本を侮辱していることを強調し、出師を前提に「陸軍若干軍艦幾隻」派遣すべく協議を求めるものでした(征韓論)。
1875年(明治8年)、釜山に於いて、東莱府と森山茂理事官との間で初めての政府間交渉が持たれます。しかし宴饗の儀における日本大使の大礼服着用(服制問題)と、同大使が宴饗大庁門を通過することについて、東莱府が承認しないなどのため紛糾、さらに朝鮮政府の中央では、大院君の支持者が交渉中止を求めたために議論が紛糾し、東莱府も確実な回答を日本側に伝えることが不可能となっていました。
膠着した協議を有利に進展させるため、日本側交渉担当者(理事官である森山氏と副官である廣津氏)から測量や航路研究を名目とし、朝鮮近海に軍艦を派遣して軍事的威圧を加える案が提出されますが、三条実美太政大臣は外務卿寺島宗則氏が対朝鮮交渉の指令案をより譲歩的なものに修正していたこともあってこれを批判。しかし、川村純義海軍大輔の建議もあって、「雲揚」「第二丁卯」の2隻の軍艦が朝鮮沿岸の測量という名目で極秘裏(征韓論者の反撃を惧れて)に朝鮮に派遣されることになりました。
5月25日に雲揚、6月12日に第二丁卯が釜山草梁へと入港。すると、朝鮮側は突然の軍艦の来航に懸念を表明しましたが、日本側は「交渉の停滞を懸念して自分(森山)を督促するために派遣されたのだ。」と説明します。さらに、軍艦への乗船視察を求めた朝鮮側官吏の歓迎式典や、事前通達をした上での訓練名目で、空砲による砲撃や射撃演習などの威圧行為を行いました。これらの行動は朝鮮側官吏や釜山周辺の住民を大いに恐れさせたものの交渉の進展に寄与することは無く、日朝交渉は森山氏らの帰国という形で一旦打ち切られることになりました。
交渉支援を終えた2隻は、名目上の任務である朝鮮沿岸の測量へと出発しました。雲揚は6月20日に釜山草梁を出港、同月29日までに朝鮮東岸部を測量し、一旦釜山に帰港しました。
1854年、日米和親条約の締結に続き、1868年明治政府の成立で近代国家への歩みを始めた日本政府が、隣国朝鮮へ近代的国際関係の樹立を求めたが、鎖国中の朝鮮からは良い返事が来なかったのです。すると征韓論が出てきて武力を背景にした朝鮮併合計画につながっていくという経過をたどることになるのですが、そのきっかけとなる事件が起こります。
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