2018年1月13日土曜日

忘れえぬ思いで

 今日1月12日、Kさんの告別式だった。無宗教の式で、坊さんがお経を読んだり、神父さんが神のお言葉を呟いたりといった儀式はなく、故人の思い出を語り、別れを偲んだのだった。
 私も思い出を語ってくれとKさんの長男から頼まれていたので、昨日から何を語ろうかと考えていたら、仕事だけでなく、登山にキャップ、海外旅行まで、けっこう一緒に過ごす時間があったことに今さらながらに驚いた。

 私が、岡山県民になったのは1990年3月末で、4月1日から岡山医療生協に出勤したのだが、配属先の組織部にいたのがKさんだった。Kさんは異動になる予定でKさんから仕事の引継ぎを受けた。最初に念を押されたのが、「医療生協の組合員さんに参加してもらう行事で一番大事なことは、弁当が足らない事態は何があっても避けなければならないということだ。」であった。そして「コツは、参加者を集約したら1個弁当が余るように手配することだ。」と続けた。爾来、私はこの教えを守り、組織部在任中は言うに及ばず医療生協にいる間、行事で弁当を食べられない人をつくらずに済んだ。

 たぶん1992年ころ、職場の仲間で石鎚山登山を計画したことがある。瓶ヶ森の山小屋に泊まり、翌日土小屋に移動してそこから山頂を目指した。大人が7、8人、子供が5人くらいいたと記憶しているが、頂上手前の試しの鎖74mの岩場を男の子4人(みんなよそ様の子ですよ)を連れて、私一人で登ったのだった。一番小さいのは小学校2年生くらいだったと思うが、親たちはサッサとう回路を上り始めたものだから仕方ない。当時は若かったから、「落ちてきたら俺が受け止める」くらいに考えたのだが、今なら、あり得ない。それでも何とか無事に子供たちと一緒に山頂に立つことができて、さすがにあの時の安ど感、達成感は今も忘れない。
 この山行ではさらにおまけがあって、帰り道、一番小さい男の子が、外科外来のN看護師と一緒に先頭を歩いて下山し、土小屋コースに降りるためには途中一度だけ右折しなければならないのだけれど、そこを直進してしまうというトラブルが起こった。雨が降っていたこともあり、先頭を歩いている二人が直進してしまったことに最後尾の私は全く気づかず、土小屋の駐車場まで下りて初めてその子のお母さんが「息子がいない」と言ってきて初めて分かったのだった。迷うとすれば土小屋コースへ曲がるところをまっすぐロープウェイコースを下ってしまったこと以外は考えられない。私は、迷うことなく荷物を軽くして、雨の中走って分岐地点を目指したのだった。幸い、途中で気が付いて引き返し、下山してくる二人と会うことができたので良かったが、これが登山路を外れでもしていたらと思うと、ぞっとしたのだった。

 それから2008年くらいだったと思うが、ホーチミンからアンコールワットを目指したメコン川を遡上する旅も忘れられない。53歳で奥さんをなくし、傷心のまま仕事を辞めてベトナムに渡ったSさんが現地で25ほど年の離れた嫁さんをもらい、娘が生まれ、娘はなちゃんの小学校入学を祝うということで、私は一升瓶を担ぎ、岸下さんは娘さんへのプレゼントを持ってホーチミンへ行った。そこで、Sさんから「若いうちにメコン川を遡上する旅をやった方が良い。年取ったらできないから。」といわれてその気になった。ホーチミンの旅行会社で朝早くツアー客を募っているのに参加して、メコン川の支流を縫うようにプノンペンに入り、そこから飛行機でシェムリアップに飛ぶというツアーに参加した(ツアーはプノンペンまで)。イベントで使う折り畳み椅子が4つ並ぶほどの幅しかない小さな小舟で、メコン川の本流を避け支流を縫うように遡上し、時々、フェリーで本流を超え小舟を乗り継ぎ国境を越える。
 二人ともたいした英語力もないくせに、不安も感じないで旅に出られたのはKさんと二人だったからである事に間違いない。こっちは岡山弁訛の強い英語(ほぼ岡山弁)、相手はクメール訛の強い英語、結局、言葉だけでは上手く通じなくて、身振り手振り、場合によっては絵を描いたり、とりあえずお互いに相手が何を言っているのかを理解しようという努力の上に、意外に通じるもんなんですよね。あのときの経験で、あらためて世界が一つになったら良いなと強く思うようになったものです。

 Kさんを語るときにもう一つ忘れられないのが、嫁さんのこと。普段は、気が利かんとか、細かいことうるさいんじゃぁとか、文句言っていたくせに、奥さんの難しい病気が見つかったとき、病名を告げられた瞬間「何ともいえん喪失感を感じた」といい、端から見ていても解るくらい落ち込んでいた。これまで以上に二人であちこち出かけたりしていたようですが、奥さんがご本人が思っているよりも遥かに長く元気で生き続けたんですね。すると今度は、嬉しそうに「何であのとき喪失感を感じたのか解らん」「あのとき喪失していた方が良かった」とKさん独特のブラックユーモアで喜びを表現していた。
 昨年秋、本当にお亡くなりになったときには、奥さんの病気をうけとめられており、あまり大きく落ち込む事はなかったように見えたが、息子の話に寄ると、家ではしょんぼり落ち込んむこともあったようだ。しかし1か月程すると元気になってきて、「大根炊いたんだけどアクなのかようわからんけど美味くない。どうしたら良い?」と聞いてきた事があった。何でも奥さん頼みだったのに、自分で飯を作る気になったことが、自分一人で生きていく決意表明のように聴こえて嬉しかった。「大根は米のとぎ汁で下茹でして、それから味をふくめていくんですよ。」とこつを教え、「美味く炊けたら食べてもらう」と約束してくれた。残念ながらその約束は反故になってしまったが…

 私は、思うところあって定年を待たずに岡山医療生協を退職し、NPO法人を立ち上げ活動をはじめましたが、Kさんもあと1年で65歳となり再雇用も終わる。そしたら、一緒に「俺たちが暮らしやすい町をつくり、俺たちが住める施設を作ろう!」などという話をしていたのですが、それが叶わぬ事になってしまった。Kさんはいつも真摯に仕事に向き合い、ただ、実務は一寸苦手だったが、(具体的なタスクという意味の)やり残した仕事もあるが、ご本人にとっては、悔いのない職業人としての人生を全うできたのではないか。

 「Kさん、あなたのやり残した事は、私が実現していきますので、安心してどこかで見守っていてください。もっと太く長く生きたかったかもしれませんが悔いのない人生を生ききったKさんですから、安らかにおやすみください。」と弔辞を締めくくった。

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