日本とロシアとの国境は安政元年(1855年)の日露和親条約において千島列島(クリル列島)の択捉島と得撫島との間に定められたが、樺太については国境を定めることができず、日露混住の地とされた。
1856年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになる。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、「北緯48度を国境とすること」、あるいは、「得撫島から温禰古丹島(オネコタン島)までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすること」を建言した。徳川幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、慶応2年(1867年)、石川利政と小出秀実をペテルブルクに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。
しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太はこれまで通りとされた(日露間樺太島仮規則)。これにより幕府とロシアは競うように樺太に大量の移民を送り込みはじめたので、現地は日本人、ロシア人、アイヌ人の三者間の摩擦が増えて不穏な情勢となった。
日露間樺太島仮規則では、樺太に国境を定めることができなかったため、明治に入っても、日露両国の紛争が頻発した。こうした事態に対して、日本政府内は、二つの意見で割れていた。
一つは、樺太全島の領有乃至樺太島を南北に区分し、両国民の住み分けを求める副島種臣外務卿の意見。
もう一つは、「遠隔地の樺太を早く放棄し、北海道の開拓に全力を注ぐべきだ」とする樺太放棄論を掲げる黒田清隆開拓次官の意見があった。
その後、副島外務卿が征韓論で下野することなどにより、黒田らの樺太放棄論が明治政府内部で優勢となった。
明治7年(1874年)3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりに得撫島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。
榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov/Стремухов)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められ、その結果、樺太での日本の権益を放棄する代わりに、得撫島以北の千島18島をロシアが日本に譲渡すること、および、両国資産の買取、漁業権承認などを取り決めた樺太・千島交換条約が締結された。
樺太・千島交換条約の正文はフランス語である。ロシア語および日本語は正文ではなく、また条約において公式に翻訳されたもの(公文)でもないため、条約としての効力は有していない。日本語訳文には、第二款のクリル群島の部分に食い違いがある。
(フランス語正文)
En échange de la cession à la Russie des droits sur l'île de Sakhaline, énoncée dans l'Article premier, Sa Majesté l'Empereur de toutes les Russies, pour Elle et Ses héritiers, cède à Sa Majesté l'Empereur du Japon le groupe des Îles dites Kouriles qu'Elle possède actuellement avec tous les droits de souveraineté découlant de cette possession, en sorte que désormais ledit groupe des Kouriles appartiendra à l'Empire du Japon. Ce groupe comprend les dix-huit îles ci-dessous nommées : 1) Choumchou
・・・途中省略・・・
18) Ouroup, en sorte que la frontière entre les Empires de Russie et du Japon dans ces parages passera par le détroit qui se trouve entre le cap Lopatka de la péninsule de Kamtchatka et l' île de Choumchou.
(第1条に述べられたる、サハリン島に対する諸権利のロシアへの譲歩の代わりに、全ロシア皇帝は後継者に至るまで、現在自ら所有するところのクリル諸島のグループを、その所有に由来する凡ての主権とともに日本皇帝に対してゆずる。従って、上述のクリル諸島のグループは日本国に属する。このグループは以下に挙げる18島をふくむ。:1)シュムシュ
…途中省略…
18)ウルプ 従ってこの海域におけるロシア国と日本国の境界はカムチャツカ半島ロパトカ岬とシュムシュ島との間の海峡を通過することになる。
出典:ウィキペディア『樺太・千島交換条約』 |
(日本語訳文)
全魯西亜国皇帝陛下ハ第一款ニ記セル樺太島(即薩哈嗹島)ノ権理ヲ受シ代トシテ其後胤ニ至ル迄現今所領「クリル」群島即チ第一「シュムシュ」島
…途中省略…
第十八「ウルップ」島共計十八島ノ権理及ヒ君主ニ属スル一切ノ権理ヲ大日本国皇帝陛下ニ譲リ而今而後「クリル」全島ハ日本帝国ニ属シ柬察加地方「ラパツカ」岬ト「シュムシュ」島ノ間ナル海峡ヲ以テ両国ノ境界トス
フランス語正文ではクリル諸島のグループと書かれているので、いわゆる択捉島、国後島、積丹島、歯舞群島を含む全千島列島を指しているが、日本語訳では、1855年に確定した国境である択捉水道より北の18島が日本の領土となったと書かれている。この齟齬が現在の北方領土交渉による主張の隔たりを生むことにつながっている。
日本政府の見解は、択捉島、国後島、積丹島、歯舞群島は日本の固有の領土であり、日本がサンフランシスコ条約で放棄した千島列島には含まないという解釈にたっているが、ロシアは全千島列島を放棄したと主張し実効支配している。
ちなみに、日本共産党は、樺太・千島交換条約は平和裏に締結された領土交渉であり、この条約を根拠に第二次世界大戦で放棄させられた全千島列島の返還を要求している。
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