6月に日朝間の国際関係樹立のための交渉支援を終えた後、雲揚は釜山を出港し、対馬近海の測量を行いながら一旦長崎に帰港します。9月に入って改めて清国牛荘(遼寧省営口市)までの航路研究を命じられて出港。9月19日には月尾島(下の地図では月尾公園辺り)に投錨しています。
9月20日月尾島から北上し雲廉島の南辺りに再投錨し、カッターを出して江華島をめざします。報告書によると、この日、御国旗は掲げていませんでした。黄山島を経て江華島の第三砲台(草芝鎮)に至り、帰路、「測量及び諸事検捜、且つ当国官吏へ面会し万事尋問するため」第三砲台に上陸しようとしたところ、第三砲台営門前で突然朝鮮軍から大小砲にて砲撃され、持参の小銃にて応戦しましたが、益無しと判断しいったん本艦に戻ります。「此儘捨置くときは御国辱に相成、且つ軍艦の職務に欠く」ことになるという理由から、翌21日、雲揚は、壇上に御国旗を掲げて江華島第三砲台に近づき、砲撃を開始しました。朝鮮側も応戦しましたが、その砲弾は雲揚に届きませんでした。第三砲台周辺の海は、遠浅で潮流も激しくかつ暗礁があって上陸に適さなかったため、砲撃によりある程度第三砲台を破壊した後、第二砲台(黄山島)に陸戦隊を上陸させ朝鮮軍の陣地を焼き払いました。
22日は陸戦隊22名を永宗島(第一砲台)に上陸させ朝鮮側の35名余を殺害、大砲36門と小銃・槍・楽器などを戦利品として雲揚に持ち帰りました。日本側は負傷者2名、1名は帰艦後死亡しました。翌23日も上陸して前日運びきれなかった捕獲品を積み込み、28日に長崎に帰還しました。
どこの船籍かわからないカッターが砲台の周りを行ったり来たりすれば、上陸の可能性ありと判断し、防衛のために威嚇射撃するという事態は想定できたはずで、挑発し、砲撃させて、こちらから攻撃する口実としたのではないかと私は観ています。いずれにしてもこの江華島事件で朝鮮側は第一から第三砲台までを失いました。
コネスト韓国地図に第一、第二、第三砲台の位置を書き込んでいます。 |
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