江華島事件の発生を、長崎に寄港した雲揚からの報告で知った明治政府は、一時帰国していた釜山理事官の森山茂氏を、長崎で補修中だった軍艦春日に乗せて釜山へと送り、釜山草梁において在留日本人の保護に当らせることにしました。しかし、釜山では平穏が保たれており、朝鮮側に開戦の意図があるようには見えず、内政で日本国内が混乱している時期でもあったため、日本政府はこの事件に関してはしばらく静観することになりました。
森山理事官の日誌によれば、朝鮮国内では日本船を攻撃したという噂が流れ、釜山草梁で日本人に接する朝鮮側の人々は大いに不安に駆られていた様子であったこと、朝鮮政府は事件後、釜山草梁における日本人への対応を一転して丁重なものに変える等、日本側を慰撫するような動きも見られ始めたことなどが記されています。
事件後の1876年(明治9年)1月、黒田清隆氏を特命全権大使とする交渉団が江華府へと派遣されると、朝鮮政府は、開化派の司訳院堂上官の呉慶錫氏を、交渉に先立つ応接の使者に派遣するなど日本側に多大な配慮を示す対応を見せました。黒田大使等は派遣前の内諭によって攻撃を受けた場合の対応等も予め指示されていましたが、開戦回避という一点において日朝両政府の意図は合致していたといえます。
「韓国官憲トノ応接及修好條規締結ニ関スル談判筆記」によると、日朝両国の江華島事件に対する主張は以下のようなものでした。
【日本側】
・日本政府は事前に日本国旗を渡して誤認を避けるように忠告していた。にもかかわらず事件が発生したのは朝鮮側の責任である。
・貴国は我が国の船が黄色い旗を掲げていたというが、そうした報告は受けていない。
・雲揚が日章旗(事件発生時は一旒、被攻撃後に三旒まで増やす)を揚げていたことは間違い無い。
・そもそも条約交渉が滞っていたこと(書契問題)は、事件と同程度に重大な問題である。
・事件については朝鮮側の明確な謝罪を求める。
【朝鮮側】
・江華島は京城接近の地(首都に近い)故に、守衛を厳しくしていた。
・日本の国旗の見本は既に我政府へ差出されていたけれども、両国交際のことが決着していないので、それが決着してから全国へ交付するつもりだった。
・其船は黄色の旗を立てており、日本とは全く別個の船と認め、防守の為発砲した。
・朝鮮は日清両国以外の船(西洋船)が来航する場合は武力を持って打ち払うことも辞さいという政策を採っていた。(鎖国政策)
・事件は日本船を西洋船だと誤認したことによって発生した不幸な事故であることは明白であり、守兵に罪はない。
最終的に朝鮮側は、日本の言い分を受け入れざるを得ず、日朝修好条規(江華条約)の締結と同時に江華島事件と条約交渉の停滞(書契問題)に対する謝罪文を手交する形で事件は決着しました。
アメリカの黒船の威力を前に日米修好通商条約を結ばざるを得なかった日本が、今度は、砲艦の力によって朝鮮との間に日朝修好条規を結び、朝鮮を力によって開国させたということですね。このころからアメリカ追随と見るわけにはいかないと思いますが、アメリカの手法を真似たのは間違いなのではないでしょうか。
日朝修好条規の主な内容は次の通り、日本に有利な内容になっています。
1.朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める。
2.日朝両国が相互にその首都に公使を駐在させる。
3.日本公館が存在する釜山以外に2港を選び開港する。
※1880年に元山、1883年に仁川が開港した。
4.朝鮮周辺の地形が複雑なので、日本の航海者が自由に沿岸を測量してその位置や深度を明らかにして地図を編纂して両国客船の安全な航海を可能とする。
5.通商については、各々の人民に任せ、自由貿易を行うこと。
6.日本人が開港にて罪を犯した場合は日本の官吏が裁判を行う。また朝鮮人が罪を犯した場合は朝鮮官吏が裁判を行うこと。
【日朝修好条規締結の影響】
1.条約の締結によって李氏朝鮮は開国し、それまでの慣習法を基にした伝統的な日朝関係が、国際法を基にした近代的なものへと置き換えられました。
2.日朝間の条約締結をうけて、欧米諸国はなおも鎖国政策を継続しようとする朝鮮に対してより一層開国を迫るようになりました。
3.砲艦外交や米価騰貴、領事裁判権などいくつもの要因が重複して、朝鮮側の日本への悪感情を蓄積させていきました。それはやがて壬午事変の暴発を招くことになりました。
4.条約締結以後、清朝が建国以来の冊封国朝鮮を維持しようと、朝鮮に積極的に関与するようになりました。清国は、朝鮮を冊封体制から、近代国際法的な属国へと位置づけし直そうとし始めます。同じく、日本も朝鮮を影響下に置こうと画策し始めていたため、日本と清朝の対立が深まり、日清戦争の遠因となりました。
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