「米国立環境予測センター(NCEP)のデータによると、7月3日の世界の平均気温は摂氏17.01度と2016年8月に記録した16.92度を上回り、観測史上最も暑い日となった。」とロイターが報じた。世界中が熱波に見舞われており、米南部ではここ数週間、猛暑が続いているほか、中国でも35度を超える熱波が継続している。北米では50度近い気温が観測された。現在冬季の南極大陸でも異常な高温を記録し、ウクライナの南極観測基地であるベルナツキー基地では、最近、7月の最高気温が8.7度に更新された。
これは、地球上に生存する人を含むすべての生態系にとって、死刑宣告に等しい。地球上のすべての国とそこに住む人たちが、力を合わせて何らかの手立てを講じないと、人類の未来はない・・・。
戦争をしている場合ではないし、化石燃料を燃やし続けている場合でも、ましては、自国の、自社の目先の利益を優先し、温暖化の課題に対する取り組みを先送りしている場合でもないのだ。
もちろん課題は温暖化対策だけにとどまらない。日本でいえば、東京電力がシビアアクシデントで壊れた原子炉建屋内の核燃料デブリが爆発しないよう冷やし続けるために使っている冷却水が、放射性物質をALPSで除去したあとにタンクに貯蔵されているが、そのタンクがいっぱいになるということで、根本対策も取られないまま放射性核種を含む汚染水を海洋投棄する計画が進行している。
海は世界につながっている。日本で海に放出された放射性物質を含む汚染水は、海の大きな循環の中で、世界中に広がり、海洋資源を汚染する。それはそのまま食物連鎖の頂点にいる人に戻ってくることになる。海は広い、だからちょっとくらい海に捨てても薄まってしまうので問題ない・・・そんな安易な考えはやめたほうがいい。東京電力の利益を削る汚染水の保管タンクの増設や根本対策の一つとして提案されている汚染水のモルタル固化、そもそも汚染水が出るのを抑える広域遮水壁などまだやれることがあるのに、もっとも安上がりな海洋投棄という愚かな選択を東京電力と現政権が行おうとしている。資本主義の愚かさが極端な形で表に出た。
しかしそうした間違った選択の先にあるのは、人類滅亡でしかない。世界の平均気温が過去最高を更新・・・おそらくこれから何度も最高記録を更新し続けるのであろう。それを手をこまねいてみているだけでは、あらゆる生態系の生存できない世界の到来を早めるだけだ。
「自分には関係ない」「誰かがやってくれる」「何もしない自由もある」そんな愚かな考えでは、人生を全うしないうちに、生存そのものが否定される時代がやってくるかもしれないのだ。なぜそんな風に自分の問題として考えることができないのだろうか。
一つの解は、新自由主義という愚かな経済政策の中で、国民一人ひとりが分断され、みんな自分のことで精いっぱいという社会が作られたことによる。経済界に支援される政党や政治家は、大企業の利益を守ることを優先した政策を実行している。それを如実に示すデータがある。昨年度の税収を見ると、法人税14兆9398億円、消費税23兆793億円、所得税22兆5217億円となっており、大企業がこれだけ大きな利益を上げ続けているのに、税収の主要な3本柱の中で法人税が一番少ない。そしてトップに躍り出たのが消費税だ。逆累進性の高い消費税が税収の主役に躍り出た。それはつまり、貧しい国民からの収奪が進んだことを意味している。新自由主義による競争社会と貧困化の広がりが不寛容と自分のことで精いっぱいの社会を生んだ。
私が大学生だった1970年代後半、革新自治体潰し、労働組合運動潰しが徹底的に行われていた。東京、京都、大阪、沖縄、横浜、名古屋・・・革新自治体の転覆が企てられ、それは一つひとつ具体的に進んでいった。労働運動では、総評が解体され、闘わない連合が大きな勢力をもった。私が社会人となったころ、かろうじて4割近くあった労働組合の組織率は、闘わない連合のおかげでどんどん低下していき、今や、正規雇用の8%程度にしか過ぎない。
かつて労働組合は民主主義の学校と呼ばれた。様々な主義主張をもった個性豊かな人たちが侃々諤々と議論し、一つの方針を決めていく過程が、まさに民主主義そのもだというわけだ。そうして組合で民主主義を学んだ労働者は、社会生活の場でも民主的な方法で地域共同体に参加した。それが地域の活動を活発にし、地域を変えようというムーブメントにつながり、革新自治体を誕生させた原動力ともなった。だから労働組合を潰し、地域での活躍の場を奪おうとした。そのために利用されたのが新自由主義だ。労働者は「勝ち組」「負け組」というわかりやすい二グループに分類され、一人ひとりが「勝ち組」をめざす競争社会に巻き込まれた結果、労働組合の組織率は下がり、労働者一人ひとりが物言わぬ経済奴隷の地位を押し付けられている。今はどうか知らないが、そのころ学習塾でも隣で学ぶ一人ひとりがライバルで、隣の彼が合格したら自分が不合格になるのだ、合格と不合格とどちらを選らぶのだと、競争に駆り立てられていった。一緒に学ぶ学友ではなく、むしろ敵とみなされ、学歴社会で生き残り勝ち組となるためには、隣席で学ぶ彼に競り勝つのだと教えられ、ともに切磋琢磨して学問研究に励むのではなく、相手を蹴落とす競争に駆り立てられていったのだ。
団結して闘うことを忘れた者から権利は次々にはぎとられ、いつの間にやら無権利状態にさらされても、そこから抜け出すために闘うことに思いを巡らせることもできず、自身の置かれた状況の中で、ささやかな刹那的な喜びを追い求めることしかできない。まさに経済界の思うままの労働者がそこにある。低賃金で文句も言わずに働き、僅かな小銭をギャンブルにつぎ込んだり、資本主義の美名に踊らされた消費社会で物を買い続ける。その物を買う行為に消費税が課せられるようになり、3%が5%になり今や10%に増やされた。自分たちが生産したものを買うのに税金を支払わされる、そのことに疑問も抱かない。
そんな世の中を作っておいて、「我がこと、丸ごと」の地域共生社会なんてことを国は言い始めた。国民を分断する政策が功を奏し、一人ひとりを孤立させたのは良いが、高齢化が進んで地域で助け合えばすむことがそうはいかなくなった。隣の人の苦労は、あくまで隣人の苦労であって、そこにちょっと手を差し伸べて支えてやろうというような発想ができなくなった。だからゴミ出し一つのために、わざわざケアプランを作り、ヘルパーさんを入れてごみ捨ての日にごみを出す。そんな介護保険制度ではこれからの超高齢社会を乗り切れない。だからあわてて地域共生社会なんてことを言い始めたのだが、根本的な国民の団結や連帯を放っておいて、地域共生社会なんて作れるわけがない。バラバラにした張本人が、バラバラにしてしまったことは棚に上げて、まとまれって言っているわけで、そんな号令一つでまとまれるわけがないのだ。
いずれにしても課題が山積している。何とかしないといけないと思っている人が集まって、どうしていくのか話し合い、やれるところから手を付けていくしかない。やれることに限界はあるにしても、諦めるわけにはいかないのだから。
何だか七夕の日に相応しくない話になってしまったなぁ・・・
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